やっぱり帰すべきだったな、と思いながら俺は床に座っている工藤とやらを眺めた。
勿論最初は断るつもりでいた。理樹があの状態だしな。だが、こいつはどうしても本人に直接渡したい物があるからと粘り、引き下がらなかった。
理樹は理樹で大丈夫だから会うよと返すし、そうなれば俺に止める権利はない。
別に、理樹の友人が会いに来る事自体は問題じゃない。俺に会社の同僚がいるように、理樹にだって大学の人間関係があるだろう。
俺の知らない友達なんてものもこれから幾らだって出来る。そこに口を出す気は無いし、寧ろ交友関係が広がっていくのは理樹にとってプラスになる。
多少は面白くない話も出てくるだろうが、そんな事は瑣末な問題だ。理樹の友人が家に来るのだって歓迎するし、ましてやこの工藤とやらは昨夜理樹を送ってきた内の一人だ。
理樹にとっていい友人になりそうな相手なら無碍にするつもりもない。が――問題はタイミングだ。
今の状態の理樹はなぁ…流石に他人と会わせるには抵抗があるんだが…。
何も知らないだろう工藤は、暢気にコーヒーカップを口に運んでいる。
ま、仕方ないか…。それにこうして家まで来るって事は、良くも悪くも理樹を気にかけてるんだろう。
「工藤、だっけ。理樹が世話になってるな」
「え、いやぁ俺は全然っすよ。昨日知り合ったばっかだし」
「…へぇ?」
さっきまでのしつこさとは見合わない、知り合ったばかりという情報に違和感を感じる。
玄関先で「どうしても直枝本人に渡したいんで」と言っていた時は、まるで親友か旧知の仲のような真剣な顔していた癖に。
第一、知り合ったばかりだというなら何でこいつが、どうしても理樹本人に渡さなきゃならないような物を持ってるんだ?
同居人伝手では駄目な程の重要物なんてそうは無いだろう。――とすると、何か別の目的か…?
「ええと、棗さんですよね?」
「…ああ。よく知ってたな」
「そりゃ、直枝から昨日目一杯話聞いたんで」
「俺の事をか?」
おかしいな…。理樹が大学で俺の事を周りに吹聴するとは思えないんだが…。
工藤はコーヒーを飲みながら尚も話を続ける。
「棗恭介さんッスよね。結婚してるんスか?」
「そりゃまた急な質問だな」
「いやだって、薬指に指輪」
結婚してなきゃしないっすよねぇ、と工藤は俺の左手を指さす。そこには確かに、今年の初めに買った理樹とのペアリングが嵌まっている。
だがどうしてそんな事をこいつが気にする。初対面の癖に妙だな、と思った時、かちゃりと居間のドアが開いた。
「ごめん、遅くなって。今起きたトコでさ」
髪とかボサボサ、と理樹が照れ笑いを浮かべる。工藤の手元でソーサーとカップがぶつかってガチャンと音をたてた。
少し掠れた声とほんのり赤い目元。乱れた感じのしっとりした髪に潤んだ黒瞳。
服装は黒のタートルネックで理樹本人としては完全防備のつもりなんだろうが…はっきり言ってエロいフェロモンが駄々漏れだ。
視界の端に、生唾を飲み込む工藤の様子が映る。…だから嫌だったんだ、この状態の理樹を他人に見せるのは。
くそ、今からでも遅くないよな、やっぱ部屋から蹴りだすか…。
「…恭介?」
「ん?」
「眉間にすっごい皺」
「…そうか?」
そりゃそうだろ。お前も少しは自覚しろ。俺以外にそういう姿をあっさり晒すなよ。
思えど口には出さず、俺は只苦笑を浮かべるに留めた。まぁ…この場で言える事じゃないしな。
だが、こういう理樹の無自覚さは正直心配だ。大学でおかしな連中に何かされたらと思うと結構気が気じゃない。
因みに今いる工藤って奴も、理樹の良い友人というよりは、すでに要注意人物にカテゴライズされかけている訳だが。
工藤は、こりゃ参ったねーと軽い口調で呟きながら無遠慮に理樹の頭からつま先までを眺めまわす。
――おいこら。
俺が思わず睨みつけると、工藤は慌てたように理樹から視線を逸らした。それから思い出したようにごそごそとポケットを探りだす。
「あーえっとさぁ、携帯忘れたっしょ。直枝」
工藤がポケットから取り出したのは確かに理樹の携帯電話だった。
小さなお守り袋が結えつけられたそれを見た瞬間、さっと理樹の顔が強張る。
「嘘…いつ?」
「昨日タクシーの中で見っけてさー。一応リッキー本人に渡すべきかなーってさ」
「あ、ありがと…」
ぎこちなく礼を言って携帯を受け取った理樹に、工藤は妙な笑みを浮かべる。
「大丈夫だって。中なんか見てねぇよ。他人の携帯とか見るような人間に見えるぅ?」
工藤のセリフに理樹は慌てて首を横に振る。
…そうか?どちらかと言えば十分そういうタイプに見えるが。
だが俺の険しい表情には気づかず、工藤は理樹の携帯に付いていたお守りを指さす。
「なぁなぁ、そのお守りってさ、中何入ってるわけ?」
「…何って…その、だ、大事な物、だよ」
「へぇ。――指輪?」
ずばりと言いきった工藤に、理樹が大げさなくらい肩を揺らす。それはそうだろう。
そのお守り袋の中に入っている指輪は…俺が理樹贈ったペアリングで、今俺が付けている奴と対になる物だ。
工藤はあっけらかんと笑う。
「あっは、当たっちゃった?けど見てねぇから気にすんなって。触った感じ指輪だなぁって思っただけだしぃ」
…何なんだこいつ。笑っちゃいるがどう考えても理樹に好意的じゃないだろ。寧ろ悪意のような物を感じる。
昨日今日知り合った奴が家にまで押し掛けてきて、一体どういうつもりだ。
理樹の方は携帯を握りしめたまま黙っている。――悪いが、俺は黙って見ている気はない。
「おい、工藤だったよな。お前一体何を」
「あーれー?指輪って言えば棗さんもしてましたっけ」
「なに…?」
「でもおっかしいなぁ。結婚してるなら奥さんどこっスか?」
「――関係ないだろう」
「まーそりゃそうっスよねぇ」
工藤はあっさりと引いて、余計なこと詮索しちまってすんません、と飄々と言ってのける。
こいつ…。
「じゃ、俺はこれで。携帯届けに来ただけなんで。――またな、直枝」
「う、うん。ごめんね、ありがとう」
そんな奴に礼なんて言う必要ないぜ、理樹――そう、喉元まで出かかった言葉を辛うじて飲み込む。
礼を言われた工藤は一瞬瞠目してから、別にと歯切れ悪く呟いた。
そのまま玄関先に向かう理樹の背後から俺も付いて行って、工藤が帰るのを見届ける。
これ以上理樹に何かおかしな事を言うつもりなら、容赦はしない。大学の友人?人間関係?そんなモンクソ食らえだ。
理樹にいい感情を持ってない奴なんかに近づかれちゃ困るんだよ。
まだ何か言いたい事があったのか、三和土で立ち止まって振り返った工藤を、俺ははっきりとした敵意を込めて睨みつける。
理樹の頭上越しに俺を見た奴は、少しばかりたじろいでそそくさと靴を履いた。
ドアが閉まって工藤の姿が消えても、胸のうちのもやもやは消え去らない。
理由は分からないが、あいつは理樹に対して悪意に近い物を持ってる。それと…悪意とは別に多分興味も持ってる。
いろんな意味でかなりの要注意人物だな。
「――理樹。あの工藤って奴だが」
「うん、ちょっと馴れ馴れしいけど、悪い奴じゃないよ」
どこがだ。鈍いにも程があるぜ、理樹。
俺が眉を顰めると、途端に理樹は困った様子で視線を落とす。
「でも…どうしよう、恭介」
「何がだ」
「バレちゃったかな…」
「俺達の事か」
理樹は力なく頷く。
まぁ…多分バレてるだろうな。携帯の中身を隈なくチェックすれば俺と理樹の関係が普通じゃないってのは丸分かりだ。
携帯なんて俺伝手で理樹に渡してもいいわけだから、理樹に直接と言って家の中に上がり込んできたのは、それを口実に探りを入れる為だった、とも考えられる。
指輪云々の下りから考えても、俺達の関係をある程度分かった上でわざと挑発したと考えるべきだ。
「バレた可能性は高いだろうな」
「そう、だよね…」
「――不安か?」
「……」
無言になった理樹の頭に、俺は軽く手を載せる。
「大丈夫だ。心配ないさ」
「そっかな…」
「もしあいつが何か言ってきたら直ぐ俺に言え。どうにかしてやる」
「…うん」
呟く理樹の瞳の奥に怯えたような色が見て取れる。やっぱ不安は不安か。
「そんなにバレるのが嫌か?」
別に深い意味は無かったが、俺がそう言うと途端に理樹はハッと顔をあげた。携帯と指輪の入っているお守りを握り締め、俺を見上げる顔は酷く慌てている。
「ち、違うよっ…別に恭介と付き合ってるのがバレるのが嫌な訳じゃないけど、でも…」
「分かってるって。悪かったな。責めるつもりで言ったんじゃない。バレたら困るのは当たり前だよな」
少なくとも理樹にとってはそれが事実だ。理樹が俺との付き合いを大っぴらに公言出来ないのは当たり前の事だし、寧ろそれが普通だろう。
だから、理樹が普段指輪をしない事だって別に不満には思わないし、元々しないようにと助言したのは俺だ。ま、実際出来ないのが当然だしな。
何だかんだ言った所で俺は社会人だ。つまり、人付き合いも社会人として節度が保たれる。
左手の薬指に指輪をしていて恋人がいる事も公言していれば、結婚したのかとか籍を入れたのかといった程度の事は話題になるが、こちらがあまり話さなければ、無理に聞きだそうとはしない。
相手の家庭の事情にまでは足を踏み入れないのが暗黙のルールだ。
だが、学生となれば話は別だろう。知り合ってさほど間が無くとも、相手に彼氏彼女がいるとなれば酒を飲ませてでも吐かせようとする。
その辺が学生と社会人の人間関係の差だ。親密なのは勿論学生時代の友人の方だろうが、その分常識もプライベートも踏み越えてくる部分がある。
俺と付き合っている、という事を理樹に恥じてほしくはないが、余計な詮索をされれば理樹にとっては精神的負担になるだろう。
俺としてはどう公言してもいいと思っちゃいるが、理樹はそうじゃない。男同志が付き合うなんてのは社会的に見て非常識もイイとこだしな。
後ろめたいと感じたり隠したいと思うのは、普通の感覚だ。
俺達の周りには偶然そういう事に寛大な人間が多かっただけで、公言状態だった高校時代にだって俺達を唾棄した人間は沢山いたはずだ。
事実、理樹は嫌がらせや酷い罵倒を受けていた時期があったらしい。
俺の卒業した後で、真人達から何度かそういう事を匂わせるようなメールが届いた事もある。だが、理樹は俺に何も言わなかった。
だから俺も聞き出しはしなかった。リーダーとして強くあろうとする、それが理樹なりのプライドであるなら、後を任せた俺がその矜持を傷つける訳にはいかない。
それでも本音を言えば、理樹に辛い想いをさせているんじゃないかという心配はずっとあった。
だからこそ、大学という全く新しい環境に入って指輪をどうしようと迷った理樹に、俺は「外しておけ」と言った。
――迷っているなら、付けるべきじゃない。
迷わず誰に対しても公言出来る程の覚悟が出来たらその時には付けて欲しいと思う。だが迷う弱さがあるうちは、付けても理樹の負担になるだけだ。、
俺は申し訳なさそうに俯く理樹の頭に手を載せる。
「こら。なんて顔してんだよ」
「…だってさ」
「何度も言ったろ。俺はこうして一緒にいられりゃそれで十分だってな。それに、バレたくないと思うのは普通だぜ?別に悪い事じゃない」
「でも」
「でももしかしも無い」
尚も言い募ろうとする理樹の額を軽く小突いて、吐息が触れ合う程間近に顔を寄せる。
「それとも、――あんまり余計な事言う口は…塞いじまうかな」
途端に理樹の頬にぱっと朱が散って、慌てたように自分の口元を押さえる。
はは、可愛いな。
「何だ残念だな。もう言わないのか?」
「むー…」
「うりうり」
「やっ…やめてよっ」
声を出させようと顎下に指を滑り込ませると、理樹は擽ったそうに身を捩る。
そうそう、お前はそうやって笑ってるのが一番だ。
不安一色だった理樹の顔にようやくいつもの笑みが載るのを確認してから、俺は改めて注意を促した。。
「ま、何にしろ、だ。あの工藤って奴が何かしてきたら俺でも真人でも、誰でもいいから誰かに言えよ?絶対一人で何とかしようとしない事」
「うん…分かったよ」
「よーし。いい返事だ。――さて、それより腹空かないか?」
俺はぺこぺこだ、と言えば理樹も頷く。
何か作るよとキッチンに向かおうとする理樹をテーブルに着かせて、俺は片目を瞑ってみせる。
「たまには俺が作る」
「恭介が?」
「これでも一人暮らししてたんだぜ?任せとけって」
ま、焼きそば位しか作ってないけどな。理樹は、大丈夫なのと心配そうな表情をしながらも楽しそうに瞳を輝かせる。
そう期待されちゃ張り切るしかないだろ。
俺は、お前のそういう顔に弱いんだ。
何を作ったら理樹がびっくりするか。大きな瞳が零れ落ちそうに丸くなるのを想像しながら台所に入る。
理樹はいつでも笑っていればいい。俺が望むのはそれだけだ。
誰かがお前を傷つけようとするなら、俺が許さない。
大丈夫だ、俺が絶対にお前を守るから。
あとがき
おうっ久し振り過ぎてストーリー展開を忘れとるっ(をい)
因みに理樹は別に保身だけを考えてる訳ではない。迷ってるのは事実だけど、その迷いはどこに起因してるかって事ですねー。