にゃあ、とレノンが鳴いた。
暗闇の中、俺は目を凝らす。といっても、ここにはもう何もないはずだ。
「レノン?」
にゃあ、とまた声が応える。
足元にじゃれつく存在を感じて、俺はそれを摘みあげた。
半分生きて、半分死んでいる猫。
「お前…こんな所で何してるんだ」
呆れたように呟く。
「何やってるんだ。ここにはもう、世界はないぜ?」
そうだ。俺たちの創った世界は消えた。ここではもう想いは叶わない。
だからレノンは、また生きたり死んだりしている。
レノンから見れば、俺もそうなんだろう。
やれるだけの事はやった。後は――理樹と鈴がどうするのか。何をするのか。
それだけは、俺にはどうしようもない。本当に見守る事しか出来ない。
相変わらず生きたり死んだり忙しいレノンを見遣って、俺は苦笑する。
「お前もさっさと現実に還れよ。俺はもう何も出来ないぞ」
言い聞かせて、レノンを足元に下ろしてやる。だが、レノンは離れない。
足元をウロウロと歩き回る。生きたり死んだりしながら。
ふと、――違和感を覚えた。
どうしてこいつは、未だに死んだりするんだ…?
俺は現実世界でタンクの穴を塞いだ。あれで、こいつは生きるのだと思っていた。
あれがこいつの生死を分けるんじゃなかったのか?
こいつは何で未だに生きたり死んだりする?何で俺の前に現れる?
――違うのか…?
まさか、俺のやった事は間違ってるのか!?
いや待て、考えろ。そんな事はないはずだ。
燃料タンクの穴を塞ぐ。それ以外に、バスの爆発を引き伸ばす方法はなかった。
俺のやった事は合ってる。間違ってはいないはずだ。
だったらなぜ、レノンはまだ俺の前に現れる?生死を繰り返す?
まだ何かやり残した事があるのか?それは何だ。
急げ、もう時間はない。
時間は無いんだ。理樹と鈴が世界を創ろうとしてる。
無謀な事を――しようとしている。俺にはもう止められない。
俺があれだけ用意周到に立ち回ったのに。
なのにあいつらは、「皆と一緒にいたい」という感情だけで、俺の隠し通した全員生還の確率を、
あっさり見抜きやがった。
畜生。俺はもう何も出来ないんだよ。これ以上、何をしろってんだ!
にゃあ、と相変わらず生きたり死んだりしながらレノンが鳴く。
「なぁ、これ以上俺に、どうしろって言うんだよ…。俺は穴を塞いだろう、あれじゃあ駄目なのか…?」
やっと見つけたんだ。やっと塞いだ。何度も闇を這いずり回って――!
――何度も、闇を、這いずり回って…。
何度も…?
その瞬間、背筋が冷えた。
シュレーディンガーの猫。確率の世界。揺らぐ事象。
だが、確定した現実は絶対だ。
現実の時間は巻き戻せない。絶対に。
もし現実の時間を巻き戻して、違う事象にいけるのだとしたら、それは多次元宇宙論だ。
平行世界の理論。だがその理論では、レノンは生きるか死ぬかのどちらかの事象しか取れない。
それは『シュレーディンガーの猫』じゃない。
俺は根本的なところでミスをしていた。
あの世界は想いの叶う場所だった。強い願いの叶う場所。それは俺すら例外じゃない。分かっていたのに。
『現実で、タンクの穴を塞いだ。』――それこそ、俺の願った虚構じゃないか!
「あれは、現実じゃないんだな…?」
確かめるように呟く。
レノンが、同意するように、にゃあ、と鳴いた。
*
すべき事がある。
まだ成していない事がる。
急げ急げ急げ。
俺はレノンの後を追う。
こいつが、俺を現実へ還す。
俺は虚構世界の核になった。あの世界のほとんどを俺が創っていた。
――精神が馴染み過ぎていた。俺にはもう、現実への出口が分からない。
レノンがいなければ、『外』には出られない。
畜生っ間に合えっ!
何でもっと早く気付かなかったんだ!?おかしい事なんていくらでもあったじゃないか。
這いずり回っていた時、どうして俺は闇を見ていた?バスが転落したのは夜だったか?違うだろう!
昼間だ。明るかった。修学旅行に行く最中だったんだ。
俺はあの時、バスの上にいた。
荷物置き場に隠れる事も考えた。だけどそれじゃパッとしない。
現地に着いて、颯爽とバスの屋根から登場したら、格好いいじゃないか。
あいつらの驚く顔が見たい。そんな単純な理由で、こっそり屋根の上に登った。
誰かに見られて通報されても困るから、白い布を被ったりなんかして。
隠れ蓑の術だと言えば、きっと鈴が「こいつ馬鹿だ!」と突っ込んでくれるだろう。
真人と謙吾は最早諦め顔で。それから理樹は――心配しながらも「凄いね」と。
楽しい事ばかりを考えていたんだ。
空は抜けるように青くて。
青くて――。
けれど。
突然の衝撃と、回る視界。落下する身体。
スローモーションで世界が動く。俺は崖のような斜面を転がり落ちて。
バスは、地面に激突した。
――レノンの走る先に、光が見えた。現実という名の光だ。
手を伸ばす。一秒でも早く――その先へ。
*
ああ、空が、青い。
ここだ。ここが現実だ。暗闇なんか無い。
どれほどの悲劇が起こっても、現実は闇に包まれたりはしない。
明るく照らされる惨状が、どれほど過酷で残酷でも。
全身を貫く激痛。胸に、ガラス片が突き刺さっている。ははっ。早速意識を失いそうだ。
だがまだだ。
俺にはやる事がある。
失敗は――許されない。
何度もシミュレーションしたんだ。間違う事はない。
早く早く早く。
間に合え間に合え間に合え。
動け動け動け。
――畜生っ…。
何でこんな遠いんだよっ、何でこんなに遅いんだっ…!
時間が無いんだよ!マジで無いんだ!
どうにかしなきゃなんねぇんだよっ!
頼むからどうにかしてくれよっ!
頼む…頼むよっ…!
――ああ、俺は今どこにいるんだ?ちゃんと向かってるのか?
レノン、今どこにいる?
俺はちゃんと正しい場所に向かってるのか?
分からなくなる。
分からない。
どこだ、どこに行けば――あんなにシミュレーションしたじゃないか、それなのに。
シミュレーションと、現実の俺の落下地点が少しズレていた。ただそれだけで…畜生!
レノンなら、分かるだろう。レノンなら俺が行くべき場所を知っている。
暗くなっていく視界。
闇の中に、光りのように白猫が佇む。
にゃあ、と鳴いたその視線の先に、俺の進むべき道がある。
そっちへ向かえば、いいのか…?
伸ばした指先に、散乱するガラスの破片が触れた。咄嗟に握りこむ。
…意識が、少しはっきりする。
まだ大丈夫だ。まだ俺は間に合う。
俺は何だって出来た何だってやってきた。だから出来る。きっと間に合う。
きっと届く――。
待っているのはハッピーエンドだ。そうに決まってる。
だから――届いてくれ…間に合ってくれっ…頼むから!
祈るように、神に祈るように――。
その場所へと辿りつきさえすれば。
そうすれば、理樹と鈴が――後は、あいつらが。
――”恭介!”
声が、聞こえた。理樹の声。
こんなのは、俺のシミュレーションには無かった。
何やってるんだ、お前は。逃げろと言ったのに。
俺の頭に応急処置をして、理樹は他の生徒の救出に戻っていく。
いい判断だ、理樹。…やれば出来るじゃないか。
――そうか、確かにこんな事は予想しなかったな。
理樹のおかげで、僅かに意識が浮上する。そして、自分の身体が徐々に傾いできている事に気付いた。
成る程。理樹がいなければ、俺はそのまま意識を失って倒れて、直ぐにバスが爆発する。
理樹と鈴が逃げ延びる位しか、時間は稼げない。
虚構世界の方が、可能性は無限だと思っていた。
違ったんだな。
こんな可能性が――現実にはあったのか。
――急げ、理樹。
時間は無い。
理樹の声と、鈴の声が聞こえる。ああ、二人ともよく頑張ってる。
本当に、よく頑張ってる。
二人さえ生きていれば、俺も、皆も死んでもいいと思ってた。
だけど。
本当は。
――生きたかった。
ずっと一緒にいたかった。
生きていたかった。死にたくなかった。もっともっと遊んでいたかった。馬鹿をやっていたかった…!
これからだった。未来はこれから拓けていくはずだった。
皆一緒に、楽しく生きていけるはずだった。
本当は――本当は。
誰一人欠けてもいけなかったんだ…!
理樹の腕が、俺の身体を持ち上げる。鈴が、俺の身体を支える。
ずっと俺の守ってきた、二つの宝物。
もう、その手を離そうとは思わない。
理樹が、俺と鈴を抱き締め――爆発から庇う。
鈴も俺を庇って抱き締めてくれていた。
ああ、本当に適わないな、お前らには。
こんな凄い宝物――置いてどっかに行けるかよ。
ずっと、ずっと一緒だ…。
――もう二度と、離れない。
どこか遠くで、にゃあと嬉しそうに猫が鳴いた気がした。
あとがき
ひとまず補完終了。色々謎に思ってた世界の在り様を検証してみました。一気に仕上げて疲れた…。
これであとはアフターが自由に書ける(笑)!