シュレーディンガーの猫2

 にゃあ、とレノンが鳴いた。
 暗闇の中、俺は目を凝らす。といっても、ここにはもう何もないはずだ。
「レノン?」
 にゃあ、とまた声が応える。
 足元にじゃれつく存在を感じて、俺はそれを摘みあげた。
 半分生きて、半分死んでいる猫。
「お前…こんな所で何してるんだ」
 呆れたように呟く。
「何やってるんだ。ここにはもう、世界はないぜ?」
 そうだ。俺たちの創った世界は消えた。ここではもう想いは叶わない。
 だからレノンは、また生きたり死んだりしている。
 レノンから見れば、俺もそうなんだろう。
 やれるだけの事はやった。後は――理樹と鈴がどうするのか。何をするのか。
 それだけは、俺にはどうしようもない。本当に見守る事しか出来ない。
 相変わらず生きたり死んだり忙しいレノンを見遣って、俺は苦笑する。
「お前もさっさと現実に還れよ。俺はもう何も出来ないぞ」
 言い聞かせて、レノンを足元に下ろしてやる。だが、レノンは離れない。
 足元をウロウロと歩き回る。生きたり死んだりしながら。
 ふと、――違和感を覚えた。
 どうしてこいつは、未だに死んだりするんだ…?
 俺は現実世界でタンクの穴を塞いだ。あれで、こいつは生きるのだと思っていた。
 あれがこいつの生死を分けるんじゃなかったのか?
 こいつは何で未だに生きたり死んだりする?何で俺の前に現れる?
 ――違うのか…?
 まさか、俺のやった事は間違ってるのか!?
 いや待て、考えろ。そんな事はないはずだ。
 燃料タンクの穴を塞ぐ。それ以外に、バスの爆発を引き伸ばす方法はなかった。
 俺のやった事は合ってる。間違ってはいないはずだ。
 だったらなぜ、レノンはまだ俺の前に現れる?生死を繰り返す?
 まだ何かやり残した事があるのか?それは何だ。
 急げ、もう時間はない。
 時間は無いんだ。理樹と鈴が世界を創ろうとしてる。
 無謀な事を――しようとしている。俺にはもう止められない。
 俺があれだけ用意周到に立ち回ったのに。
 なのにあいつらは、「皆と一緒にいたい」という感情だけで、俺の隠し通した全員生還の確率を、
あっさり見抜きやがった。
 畜生。俺はもう何も出来ないんだよ。これ以上、何をしろってんだ!
 にゃあ、と相変わらず生きたり死んだりしながらレノンが鳴く。
「なぁ、これ以上俺に、どうしろって言うんだよ…。俺は穴を塞いだろう、あれじゃあ駄目なのか…?」
 やっと見つけたんだ。やっと塞いだ。何度も闇を這いずり回って――!
 
 ――何度も、闇を、這いずり回って…。
 
 何度も…?
 
 その瞬間、背筋が冷えた。
 シュレーディンガーの猫。確率の世界。揺らぐ事象。
 だが、確定した現実は絶対だ。
 現実の時間は巻き戻せない。絶対に。
 もし現実の時間を巻き戻して、違う事象にいけるのだとしたら、それは多次元宇宙論だ。
 平行世界の理論。だがその理論では、レノンは生きるか死ぬかのどちらかの事象しか取れない。
 それは『シュレーディンガーの猫』じゃない。
 俺は根本的なところでミスをしていた。
 あの世界は想いの叶う場所だった。強い願いの叶う場所。それは俺すら例外じゃない。分かっていたのに。
 『現実で、タンクの穴を塞いだ。』――それこそ、俺の願った虚構じゃないか!
「あれは、現実じゃないんだな…?」
 確かめるように呟く。
 レノンが、同意するように、にゃあ、と鳴いた。
 
          *
 
 すべき事がある。
 まだ成していない事がる。
 急げ急げ急げ。
 俺はレノンの後を追う。
 こいつが、俺を現実へ還す。
 俺は虚構世界の核になった。あの世界のほとんどを俺が創っていた。
 ――精神が馴染み過ぎていた。俺にはもう、現実への出口が分からない。
 レノンがいなければ、『外』には出られない。
 畜生っ間に合えっ!
 何でもっと早く気付かなかったんだ!?おかしい事なんていくらでもあったじゃないか。
 這いずり回っていた時、どうして俺は闇を見ていた?バスが転落したのは夜だったか?違うだろう!
 昼間だ。明るかった。修学旅行に行く最中だったんだ。
 俺はあの時、バスの上にいた。
 荷物置き場に隠れる事も考えた。だけどそれじゃパッとしない。
 現地に着いて、颯爽とバスの屋根から登場したら、格好いいじゃないか。
 あいつらの驚く顔が見たい。そんな単純な理由で、こっそり屋根の上に登った。
 誰かに見られて通報されても困るから、白い布を被ったりなんかして。
 隠れ蓑の術だと言えば、きっと鈴が「こいつ馬鹿だ!」と突っ込んでくれるだろう。
 真人と謙吾は最早諦め顔で。それから理樹は――心配しながらも「凄いね」と。
 楽しい事ばかりを考えていたんだ。
 空は抜けるように青くて。
 青くて――。
 けれど。
 突然の衝撃と、回る視界。落下する身体。
 スローモーションで世界が動く。俺は崖のような斜面を転がり落ちて。
 バスは、地面に激突した。
 
 ――レノンの走る先に、光が見えた。現実という名の光だ。
 手を伸ばす。一秒でも早く――その先へ。
 
           *
 
 ああ、空が、青い。
 ここだ。ここが現実だ。暗闇なんか無い。
 どれほどの悲劇が起こっても、現実は闇に包まれたりはしない。
 明るく照らされる惨状が、どれほど過酷で残酷でも。
 全身を貫く激痛。胸に、ガラス片が突き刺さっている。ははっ。早速意識を失いそうだ。
 だがまだだ。
 俺にはやる事がある。
 失敗は――許されない。
 何度もシミュレーションしたんだ。間違う事はない。
 早く早く早く。
 間に合え間に合え間に合え。
 動け動け動け。
 ――畜生っ…。
 何でこんな遠いんだよっ、何でこんなに遅いんだっ…!
 時間が無いんだよ!マジで無いんだ!
 どうにかしなきゃなんねぇんだよっ!
 頼むからどうにかしてくれよっ!
 頼む…頼むよっ…!
 ――ああ、俺は今どこにいるんだ?ちゃんと向かってるのか?
 レノン、今どこにいる?
 俺はちゃんと正しい場所に向かってるのか?
 分からなくなる。
 分からない。
 どこだ、どこに行けば――あんなにシミュレーションしたじゃないか、それなのに。
 シミュレーションと、現実の俺の落下地点が少しズレていた。ただそれだけで…畜生!
 レノンなら、分かるだろう。レノンなら俺が行くべき場所を知っている。
 暗くなっていく視界。
 闇の中に、光りのように白猫が佇む。
 にゃあ、と鳴いたその視線の先に、俺の進むべき道がある。
 そっちへ向かえば、いいのか…?
 伸ばした指先に、散乱するガラスの破片が触れた。咄嗟に握りこむ。
 …意識が、少しはっきりする。
 まだ大丈夫だ。まだ俺は間に合う。
 俺は何だって出来た何だってやってきた。だから出来る。きっと間に合う。
 きっと届く――。
 待っているのはハッピーエンドだ。そうに決まってる。
 だから――届いてくれ…間に合ってくれっ…頼むから!
 祈るように、神に祈るように――。
 その場所へと辿りつきさえすれば。
 そうすれば、理樹と鈴が――後は、あいつらが。
 
 
 
 ――”恭介!”
 声が、聞こえた。理樹の声。
 こんなのは、俺のシミュレーションには無かった。
 何やってるんだ、お前は。逃げろと言ったのに。
 俺の頭に応急処置をして、理樹は他の生徒の救出に戻っていく。
 いい判断だ、理樹。…やれば出来るじゃないか。
 ――そうか、確かにこんな事は予想しなかったな。
 理樹のおかげで、僅かに意識が浮上する。そして、自分の身体が徐々に傾いできている事に気付いた。
 成る程。理樹がいなければ、俺はそのまま意識を失って倒れて、直ぐにバスが爆発する。
 理樹と鈴が逃げ延びる位しか、時間は稼げない。
 虚構世界の方が、可能性は無限だと思っていた。
 違ったんだな。
 こんな可能性が――現実にはあったのか。
 ――急げ、理樹。
 時間は無い。
 理樹の声と、鈴の声が聞こえる。ああ、二人ともよく頑張ってる。
 本当に、よく頑張ってる。
 二人さえ生きていれば、俺も、皆も死んでもいいと思ってた。
 だけど。
 本当は。
 ――生きたかった。
 ずっと一緒にいたかった。
 
 生きていたかった。死にたくなかった。もっともっと遊んでいたかった。馬鹿をやっていたかった…!
 これからだった。未来はこれから拓けていくはずだった。
 皆一緒に、楽しく生きていけるはずだった。
 
 本当は――本当は。
 誰一人欠けてもいけなかったんだ…!
 
 
 
 理樹の腕が、俺の身体を持ち上げる。鈴が、俺の身体を支える。
 ずっと俺の守ってきた、二つの宝物。
 もう、その手を離そうとは思わない。
 理樹が、俺と鈴を抱き締め――爆発から庇う。
 鈴も俺を庇って抱き締めてくれていた。
 ああ、本当に適わないな、お前らには。
 
 こんな凄い宝物――置いてどっかに行けるかよ。
 ずっと、ずっと一緒だ…。
 
 ――もう二度と、離れない。
 
 
 どこか遠くで、にゃあと嬉しそうに猫が鳴いた気がした。
 
 
 
 
 
 

あとがき
 ひとまず補完終了。色々謎に思ってた世界の在り様を検証してみました。一気に仕上げて疲れた…。
 これであとはアフターが自由に書ける(笑)!
 

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