完璧な数式

 教室から眺める景色。開いた窓から、グラウンドに響く声が入り込む。
 ゆっくりと茜色に染まる空を、来ヶ谷唯湖は自席で眺めていた。
 奇跡の全員生還――そうもて囃された事故から、早二か月。マスコミもなりを潜め、静かな日常が戻りつつある。
 教室には誰もいない。自分以外には誰も。
 今は、窓から入り込む音だけが、自分と世界を繋ぐ。
 ――独りは、嫌いではない。
 だが、彼女の静かな時間は直ぐに破られた。教室のドアが、何の前触れもなく開く。
「お、こんなトコにいたのか、来ヶ谷。今日は練習は出ないのか?」
 振り返ったそこに、棗恭介が立っている。
「恭介氏か」
「空なんか見て、黄昏てたのか?」
 からかうような、だがどこか優しさの滲む声音に、来ヶ谷は目を眇める。
「ああ。――雪でも降らないかと思ってな」
「……雪には、早すぎるんじゃないか?」
 返ってきた声に、先ほどの優しさはない。代わりに刺すような冷たさが含まれていた。
 それはそうだろう。来ヶ谷は今、目の前の男に、喧嘩を売ったのだ。
 一気に空気が張り詰める。
「恭介氏。確認しておきたい事がある」
「何だ」
「あの――世界の事だ」
 呟くように言った後、来ヶ谷は席を立つ。窓辺に近寄って、空を見上げた。
 戸口に立っていた恭介も、窓際へ移動してくる。
 来ヶ谷から少し離れた場所で、恭介は窓に背を預け、腕組みしながら顔だけを彼女の方へ向けた。
「……言ってみろ」
「フフ…そう怖い顔をするな」
 理樹や鈴、いや――他の誰にも、おそらく生涯見せる事のない顔だろう。
 ――この男と私は、同類だ。
 そう思うと、おかしくてならなかった。
 この男を責める事は、自分を責める事と同じだ。この男の罪を暴くのは、自分の罪を暴く事だ。
 それでも――否、だからこそ、裁かねばならない。何より、自分自身を。
「なぁ恭介氏。あの世界は……確率の世界、だったのだろう?」
「―――」
 恭介は、答えない。だがやがて、その口元が、薄く弧を描いた。それで十分だった。
 よく分かったなとでも言いたげな、傲慢で残酷な笑みから、来ヶ谷は目を逸らす。
 ――反吐が出そうだ。
 まるで自分を見ているようで。
「やはりそうか……。なら、『奇跡の全員生還』も、君は知っていたのか」
「お前も知っていただろう」
 吐き捨てた言葉が、過たず自分にも返ってくる。来ヶ谷は苦笑するしかない。
 あの世界で、彼女は自分の欲望に従った。
 想いの強い方が勝つ世界――ならば勝算はあった。自分も世界を創ってしまえばいい。理樹と二人だけの世界を。
 想えば叶う。けれど、それは賭けだった。不確定要素が多すぎて、彼女にも何が起こるかは予想できなかった。
「私は賭けたんだよ、恭介氏。理樹君と……二人で死ぬ可能性に」
 彼女は、実際には単なる客人で、修学旅行のバスには乗っていない。彼女は死なない。それでも、精神だけで死ぬ事が出来ると踏んだ。
 理樹と二人だけの世界を創って、そこに閉じこもる。
 全員を――死なせて。
 その時の暗く甘い情動を思い出し、来ヶ谷はゾクリと背筋を震わせた。
 我ながら恐ろしい。あの醜悪な欲望を支えたのは、完璧なまでに計算された、まるで機械のように正確で冷たい理性だった。
 しかしそれは、目の前の男によって突き崩されてしまったが。
「―――お前は」
 不意に、恭介が口を開く。
「計算高いのに、数学が嫌いだったな」
「…っ」
 言葉が、胸に突き刺さる。
 ――ああ、そうだ。そうだとも。
 あの完璧で美しい理論が、嫌いだ。
 幼い頃は好きだった。自分の思った通りの答えが出る。答えが一つしかない。唯一無二の完璧な答え。
 数学は彼女に、至高とも思える理想を見せてくれた。
 だが、やがて彼女は気付く。数学は完璧で――そして、それだけだった。
 正解はたった一つで他には無い。冷たく冷え切り、他を拒絶する。
 美しく完璧で――無味乾燥な世界。
 ――下らない。
 なんて下らない。数学はまるで私だ。
 外部からの情報が、私という媒体を通して、結果を出す。機械の様に正確な脳からは、いつも完璧な答えが出力された。
 答えを、ただひたすらに排出する。そこには何の感慨もない。
 計算機と同じだ。数式と同じ。
 あの単なる記号と数字の羅列が、私か。滑稽だ。だが面白くもない。
 この味気ない世界に色を付けるには、どうしたらいい?
 ――”楽”を、求めてみようか。
 そうして、その”楽”を求める過程で、来ヶ谷は、三枝葉留佳に出会う。突拍子もなく、いつでも唐突な少女。
 ”楽”を共有するのに、十二分な相手だ。終いには虚構世界とやらにまで招き入れてくれた。
 だが。
 ――私は、その少女すら裏切った。
 背筋が凍る。
 それでも来ヶ谷は、いつも通りの顔で頷いた。
「確かに私は数学が嫌いだよ。あれは楽しくない」
「なるほど。来ヶ谷は、楽しみ方が足りないんだな」
「足りないか?」
「どんな下らない物でも、案外楽しめるもんだ」
「そういえば恭介氏は、少年漫画が好きだったな」
「ああ、大好きだ」
 あの分かりきった展開がな。
 そう言って、酷薄な笑みを敷く恭介に、寒気がした。まるで、その下らなさを嘲笑っているかのように見えた。
 もしかしてこの男は、ただ”楽しいフリ”を演じているだけなのではないか……?
「恭介氏、君にとって楽しい事とは、何だ……?」
「―――」
 恭介は笑みを消し、底の窺えない目で来ヶ谷を見返す。暫しの沈黙の後、ようやくその口が開いた。
「人を、楽しませる事だ」
「――そうか」
「お前もだろう」
「さぁ…どうかな」
 その言葉に、来ヶ谷はまだ同意できない。
 自分はそこまで至ってはいない。自身が楽しむ事で精一杯だ。他人の事も、考えず。
「すまなかったな、恭介氏」
「ん?」
「私は――理樹君を、皆を……」
「それは、俺に言う事じゃない」
 感情を削げ落とした声が、低く囁く。
「懺悔で赦されるような罪じゃない」
 突き放した言葉を聞きながら、来ヶ谷は静かに目を閉じる。
 目の前の男は、きっともう整理をつけたのだろう。彼はもう、自身を裁いている。
 恐らくはこれからもずっと、裁き続ける。
 それは地獄のようだ、と思った。
「恭介氏は、……自分が、好きか?」
「来ヶ谷はどうだ」
「私は、――私が、嫌いだよ」
 数学を嫌うように、自身を厭う。いや、それでは因果律が逆だろうと、来ヶ谷は自嘲する。
 その様子に恭介は目を細め、そして言った。
「俺は、お前が嫌いじゃないぜ?」
「――何故」
「理樹が好きになった相手だからな」
「っ!」
 衝撃、だった。
 来ヶ谷は茫然と恭介を見つめる。
 ――ああ。そうだ。そうなんだ。私は確かにあの世界で、理樹君と……。
 恋を、したんだ。
 冷たく張り詰めていた空気が、不意に柔らかく解ける。
 恭介が、ガラス越しに外を眺める。
 いつの間にか、グラウンドから聞こえる声は消えていて、その代わりに、校舎へ戻ってくるリトルバスターズの面々が見える。
「俺は」
 恭介の目が、夕闇の迫る中、たった一人の姿を追う。
「だから俺は、自分の事も嫌いじゃない」
「……そうか」
 好きだと言ってくれた人がいる。
 なら、それでもう十分じゃないか。
 どれほどの罪を背負っても――それだけで、生きていくには十分だ……。
 それから二人は、黙って待ち続けた。
 『彼』が教室のドアを開けて、微笑みをくれるのを。


 
 
 
 
 

あとがき
 理樹は、恭介と来ヶ谷にとっての赦し。
 久々の三人称。基本来ヶ谷視線ですが。
 シュレーディンガーの猫のその後です。いやなんつーか恭介が…ブラックブラック〜…
 来ヶ谷さんは、最初からメンバーにはいますが、客人だったという設定っすよねぇ、多分。
 で、連れてくるなら、妙に仲の良かった葉留佳さんかなと。
 ていうか、昨日夜中の二時まで書いてた私ってどうよ…。

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