それは優しく、温かく、楽しい――幸せな世界。
けれど、世界はけっして幸せだけで出来てはいない。
二階の窓から降りてきた恭介が、海へ行こうと言った時。
僕は、悟った。
この人はやっぱり凄い人で―――僕らの世界を、終わらせに来たんだ、と。
皆が海ではしゃいでいる。何も知らずに……否、本当は皆、全て知っているのかもしれない。
今も、僕と鈴だけが何も知らないような気がする。
だって僕の隣に立つ人は、本当に、本当に――凄い人なんだ。
「――理樹」
低い声は、まるで神の啓示のようだと思った。何とかして、その先を言わせまいと考えたけれど。
「俺がお前らを海に連れてきた意味は、分かるな?」
宣告された言葉に、僕は嘘など吐けなくて。…ただ、黙って小さく頷いた。
恭介は、そうか、と言ったきり口を噤む。
分かってるよ、恭介。
海は―――終りの場所だから……。
僕と鈴は、もう弱いんじゃない。ただ、我儘だったんだ。誰を失う事も嫌だった。
それに耐えられないのではなく、もうそれ程には弱く無いくせに、子供のように駄々を捏ねて嫌なこと全てから目を逸らしただけ。
分かってる…。ごめんね。結局恭介にやらせてしまった。
きっとこれは、始めた僕らの手で、終わらせなきゃいけなかったのに。
「…もう、大丈夫だな?」
断言するように、恭介が聞く。
僕は恭介を見上げ、その全てを見通すような瞳を真っ直ぐに受け止めて、口を開いた。
「ごめん、恭介」
「―――?」
僕の言葉に、恭介が怪訝そうに眉を顰める。
うん。ごめんね、恭介。でも僕はもう、決めたから。
恭介がどれ程の決意を持っていても――それでも、僕の意思は僕のものだ。
だから、僕はもう一度謝る。
「ごめんね」
「…何を、言ってる…?」
「――鈴っ!」
手を振って、僕は鈴を呼ぶ。
ちりん、と音をさせて走ってきた鈴は、僕たちを見て、「どーした?」と笑顔で聞いてくる。
その笑顔に胸が痛んだけれど――僕は…きっと笑えていたと思う。
それが……”約束”だったよね…?
「鈴。…鈴は、もう僕がいなくても大丈夫だよね?」
背後で、恭介の息を飲む気配が伝わってきた。だけど、構わず続けた。
「ちゃんと、一人で歩けるよね?」
「何言ってるんだ?訳分からん」
「鈴。答えて」
「何なんだ?あたしはそんな子供じゃないぞ。歩く位一人で出来る。当たり前だ」
「――うん」
頷いた瞬間、後ろから強く腕を掴まれた。
「理樹。…ちょっと来い」
見た事もないほど険しい顔で、恭介は僕を鈴から引き離す。腕に食い込む指が痛い。
半ば引き摺られるように、木陰に連れて行かれる。
「恭介…腕、痛いよっ…」
「―――」
ああ、怒ってる。すごく…すごく、怒ってる。
ごめんね…。
ダンっと木の幹に背中を叩き付けられて――。両肩を掴む恭介の握力は、本当に骨が砕けそうな程だった。
「――理樹」
「っ…」
大丈夫。怖くない。
怖がるなっ!
「なに、恭介…」
「どういうつもりだ」
冷やかな視線と声が、僕を突き刺す。
「――鈴を、見殺しにするつもりか」
「違うよ」
「ならさっきの発言は何だ。…答えろ、理樹」
「そのまま、だよ」
「っ…何を言ってる…!」
恭介は、歯ぎしりするように僕を睨みつける。
「自分が何を言ってるのか、分かってんのかっ…!」
僕の身体を揺さぶる恭介の顔には、怒りと、――焦り。
うん…ごめん。分かってる。僕は…酷い奴だよね。
でもね、恭介と皆の話し合いを、僕と鈴が知らなかったように、僕と鈴の話し合いも、皆は知らない。
恭介は――知らないんだ。
「ごめん、恭介」
「理樹っ!」
たしなめるような強い声にも、僕はもう揺らがない。
だって恭介だよ?僕をこんなに強くしてくれたのは。
「もう、決めたんだ」
「駄目だっ。…そんな事は俺が許さないっ!」
「許さなかったら――何なのさ」
「お前っ…!」
「恭介は勝手だよっ!いつでも自分の思い通りになると思ってる!でも僕の意思は僕のものだ!僕にだって、死ぬか生きるか選ぶ権利くらいあるだろっ…!」
「!」
バンッ…と音がして――目の前がクラリとなるほど、頭がぶれる。次いで、じわじわと頬が熱を持つのが分かった。
恭介に――叩かれた。
…こんなの、初めてだ…。
「死ぬか生きるか…選ぶ権利だと?何を言ってる…。死ぬしかない俺達を知っててそんな事を言うのかっお前は!」
「――言うよ。…嘘は、吐けないから」
「っ…」
恭介が目を見張る。
そうだよ、ホントは嘘を吐いたって良かった。うん、って頷いて、じゃあねって皆とさよならしたって良かった。
だって現実に戻れば、僕と鈴しかいなくて、結局そこでどうするか決めるのは、僕らなんだ。
恭介じゃない。皆じゃない。
だけど――嘘は吐きたくなかった。
優しい嘘だってホントは必要で、恭介が僕らにくれたのは、いつもそんな優しい嘘ばかりだったけれど。
でも、気付いてしまったから。
優しい嘘は――、時にどんな真実より残酷だと。
助かるのは僕ら二人だけ――それは、嘘だ。
本当なら、助かるのは恭介一人のはずなんだ。事故の直後に、唯一意識があって動けた人物。
恭介が一人で逃げれば、確かに僕も鈴も助からないけれど、恭介は助かる。
なのに彼は言う。「助かるのはお前たちだけだ」と。
違うよね?「助かる」んじゃなくて、「助ける」んだ。恭介が…助けるんだ。
――そんなのは、おかしいじゃないか。
だから、僕と鈴は、二人で世界を創ったあの日、二人だけで話をして、決めた。
恭介を、助けよう――と。
でも二人とも、それがどんな事かはちゃんと知っていた。
それでも、僕らは二人で決めたんだ。
”ねぇ、鈴。恭介を…助けに行っても、いいかな…”
”…うん。理樹、あたしなら大丈夫だ。だから…バカ兄貴の事、よろしく頼む”
”ごめんね、鈴。僕は、やっぱり弱いまんまかなぁ…”
”そんな事ないぞっ。理樹は――すごく強い。きょーすけと…おんなじくらい、強いっ…!”
”――うん。そうだね…。鈴も、強いよ”
”うんっ…あたしもだっ…!”
二人で言い聞かせ合いながら、二人で泣いた。
鈴は、ちゃんと分かってて、だから僕らは約束したんだ。
笑顔でいよう、って。
最後まで、笑顔でいよう。
笑って――そして、ちゃんと一人で歩けるように…。
新しく出来た世界の中で、鈴は色んな事を忘れていたけれど――でも僕らの約束は、きっと心のどこかに刻まれていると思う。
助けたい――その想いだけで全てを救えるほど、現実は優しくない。
万に一つの奇跡…きっと、そんなものもない。
あるのはただ、恭介を助けたいという、この想いだけだ。
そしてこの想いが、今の僕の全てだから。
罵倒されたって蔑まれたって、怒られたって――例え死んだって、これだけは譲れないんだ。
真っ直ぐに恭介の瞳を見つめ返す。
恭介は顔を歪めて、それからひどく憎々しげに言った。
「そんなに…死にたいのか」
そういう訳じゃなかったけれど――言ってもきっと恭介は納得しないと思ったから、敢えて僕は、無理矢理に笑ってみせた。
「だったら、何」
「――そうか。なら…今ここで、俺が殺してやろうか」
肩を掴んでいた手が、不意に僕の首に絡みつく。
「きょう…!」
「死ぬってのがどういう事か、教えてやるっ…!」
「ん――ぐっ…!」
ギリ…と首を締められる。喉を潰されていく感覚。
苦――しっ…!
「――っっ…!」
生理的な涙が滲む。霞む視線の先に――恭介の、泣きそうな顔。
ああ、ごめんね。本当に…。
僕は静かに目を閉じる。
「っ…――バカやろうっ…!」
不意に手の力が緩んで、急激に肺へと空気が入り込む。閉じられた気管が開いて、僕はむせかえった。
咳き込みながら苦しげに呼吸する僕の胸倉を、恭介が掴み上げる。
足が、地面から浮いた。
「何でだ…どうしてだ、理樹っ。お前は一体何がしたい!?」
「――そんなの、決まってるよ…」
憤る恭介の頬に、僕は手を伸ばす。
「助けたいんだ…」
「っ…無理だ」
「うん。分かってる」
「だったら――!」
「それでも、助けたいんだ」
助からない事が分かってても、助けたい。
確かにそれは矛盾していて、僕はありもしない奇跡を望んでいるのかもしれない。
だけど。
この想いだけは――誰にも否定なんかさせない。例え恭介にだって、だ。
恭介は、それ以上は何も言わなかった。ただ一言「勝手にしろ」とだけ吐き捨てて――。
結局その後、恭介とは一言も話せないまま…。
その日、僕らの世界に――雪が降った…。
終幕の白いカーテンが引かれれば、そこで――劇は終わりだった。
演目は――『幸せな世界』。
ねぇ皆、楽しかったよね?幸せだったよね?…うん。それなら、良かった…。
僕らの世界は消えて――幸せな夢は終わって…。
やがて目覚めた現実には、過酷が待っていた。
夢で見たよりずっと生々しい惨状。
僕は、鈴を先に逃がした。鈴は、ちゃんと一人で走って助けを呼びに行った。
約束通り、僕は笑顔で――鈴を見送った。
それから、一人足を引きずって恭介の姿を探す。
見つけた時は心底安堵して、けれどその傷ついた姿に、唇を噛み締めた。
大丈夫だよ、恭介。今、助けるから――。
傷ついた身体を抱きしめて、横へとずらす。
そして、恭介の代わりに、僕がタンクの穴を背中で塞ぐ。
熱い――痛い。
恭介の頭が、僕の肩に凭れてくる。…多分、恭介にはもう意識もなくて。
けれど…諦めきれなくて。
「恭介っ…目、開けてっ!」
縋るように声を掛けて、その頬を叩く。
「お願いだよっ…起きて…」
時間が無いんだ。
早く――早くっ…!
分かっていたはずなのに。こんな事になると、もう当の昔に知っていたはずなのに。
覚悟していた――はずなのに。
でもやっぱり、僕は無様に足掻いていた。
どうしようもない、なんて…そんな事じゃ諦めるなんて無理だった。
だって、生きてるんだ。恭介はまだ、息をしてて――生きてるのにっ…!
それなのにどうして諦められる!?
恭介が――その命の温もりが、まだ僕の隣に残っているのにっ――!
ああ、どうか…神様。お願いです。
僕の命なんかいらない。こんなものでいいならあげるから…。
だからどうか、この人だけは助けて下さいっ!
この人が助かるなら何だってするからっ…!
「恭介っ…!」
「――泣い、てる…のか」
「っ…」
その声に――奇跡を思った。
恭介の赤い瞳が、僕の顔を映す。
もう二度と、見る事の出来ないと思っていた瞳。
僕の大好きな――恭介の…。
きっと、僕は笑顔だったんじゃないかと思う。だって、恭介も、笑ったから。
ああ良かった…。
もういい。もう何もいらない。恭介が生きていてさえくれれば――他には何も。
それだけが僕の望みだ。
「ね、恭介…逃げてよ。鈴が、待ってるよ」
「お前は――」
泣くように、恭介が笑う。
「いつも、俺を困らせるな……理樹」
そう言って、恭介は、そっと手を繋いでくれた。
昔そうしてくれたように、優しく僕の手を包み込む。
仕方ない奴だな――そんな言葉が聞こえた気がした。
やがて肩に恭介の頭が乗って――その重みが、静かに増す。
「きょうすけ…?」
もっと話をしていたくて。
けれどもう応えはなくて。
繋いだ手は、まだ温かかった。
優しいぬくもりは残っているのに―――。
ああ、そうか…。そうだった。
この世界は――幸せだけで、満ちてはいないんだったね…。
神様のくれた奇跡は、まるで流れ星のように一瞬だったけれど。
ああでも、この世に何も残らなくたっていい。
ただこの心があれば、それだけで。
手を繋いで見上げた空は―――きっと永遠に青いまま…――。
あとがき
EXではっちゃけて、何かホントに色んな事が関係ねぇっ!になった結果、こんなの書いちゃいました…。
いや、これはUPしない予定のものだったんですけどね…。まぁ、IFエンドって事で…。でも実は、リトバスクリア直後、
こんなネタ浮かびまして…その絶望感を払拭するために、「シュレーディンガーの猫」を書いたのでした…。
書いたのは「シュレーディンガーの猫」が先ですが、ネタ浮かんだのはこっちが先です…(苦笑)
何か、これ書いてたら…ホントに吹っ切れましたっ…(をいっ)いやぁ、もうあいつらが幸せならそれでいいや!
この話だけは、ちょっと題名の位置とか、文中に持ってきてます。案外思い入れの深い話なんすよ…。
因みに、この後の鈴の話もあります……。