たった一つの真実

 提灯の下がる狭い道には的屋が軒を連ね、行き交う浴衣がひらりと舞い踊る。
 お祭りに相応しく、昼間の閑散とした様子など何処かに、今は人で賑わう神社の境内。
 その雑踏の中、しっかり手を繋いだ二人の少女が、妙に用心深げに夜店を覗き歩く。
 一人は凛と顔をあげ、だがそこにあるのは、小さな身体目一杯に張り巡らされた警戒心。
 一人は戸惑う様に怯えながら、けれどその瞳に溢れるのは抑えきれない好奇心。
 幼い少女達は、ろくに辺りも見ずに、人混みに流されるまま境内の端へと到達する。
 そして、漸く混雑の切れたそこで、ほっと一息ついた。
「…ねぇ、かなた」
「何、はるか」
 人混みの中を歩く間中強張っていた顔を少しだけ緩ませて、姉――佳奈多は、妹を振りかえった。
 妹の葉留佳は、佳奈多の顔を見るや安心したように、にへら、と間の抜けた笑みを浮かべる。
「すごい人だね」
「そうね」
「お店、いっぱいだよ」
「だってお祭りだもの」
「そっかぁ。あのね、さっき面白いお店見つけたよ?なんかいっぱいキラキラしたのが置いてあったんだっ」
「そう」
「うん!お祭りって楽しいねっ」
「…ええ」
 頷いて、だが見回す辺りには人しか見えない。通行人の多さに辟易し、佳奈多は思わず嘆息する。
「……ウンザリね」
「――え」
 その一言に、さっと葉留佳の顔色が変わる。急におどおどしたように、瞳が不安に揺れてうろたえた。
 妹の表情に気が付いて、佳奈多は己の失言を知った。
 違う、そうじゃない。怒ったわけでも、葉留佳を責めた訳でもない。
 けれど、うまくそれを言葉に出来ない。
 黙ってしまった佳奈多に、葉留佳はいよいよ泣きそうになる。
「かなた…おこってる…?」
「――怒ってないわ」
「でも」
「怒ってないって言ってるでしょう!」
「っ」
 葉留佳が怯えたように息をのむ。その様に、佳奈多はきゅっと唇を引き結んだ。
 違う――違う。こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
 うまくいかない。
 近くの境内でお祭りがあると佳奈多が知ったのは、つい今日の朝の事だ。
 品評会で二人が本家に集められたのが昨夜。今朝方、庭掃除の時に家の前に落ちていたのを拾ったと、お祭りのチラシを手に葉留佳はひどくはしゃいだ。
『いいなぁ。行きたいな』『楽しそうだね』『きっと夜店とかたくさんだよね』『…かなたと、行けたらいいのに』
 行けるわけないでしょう、とその時の佳奈多は冷たく断じた。
 けれど――内心本当は、葉留佳と同じ事を思っていた。葉留佳と二人で行ったら、きっと楽しい。
 別にお祭りになんか興味はないけれど、でも葉留佳が行きたいと言うなら、この子がそれを楽しいというなら、…きっと私も楽しいに違いないから。
 連れて行ってあげたい。一緒に行きたい。葉留佳と二人だけで。
 誰にも邪魔されず、二人で。
 勿論、それが無理な事は分かっていた。争う立場を余儀なくされている二人だ。少なくとも、家から許しが出ることなどないだろう。
 分かっていたけれど。
 葉留佳があんまりに『行きたい』と何度も言うから。
 だから佳奈多は、『行きましょう』と応えた。
 その時の葉留佳の顔といったらなかった。本当に瞳が転げ落ちるのではないかと心配になるほど目を見開いて、固まって。それから―――満面に笑みを浮かべたのだ。
 ああ良かったと思った。葉留佳のこんな顔を見られるなら、こっそり家を抜け出してお祭りに行く位、どうという事もない。
 靴箱に仕舞ってあったサンダルを出してきて、それを履いて窓から家を出た。
 二人で夜に出歩くなんて、初めての経験だ。
 到着した境内は、思った以上の人で溢れ返っていて、佳奈多は緊張した。何かあったら葉留佳を守らなきゃ――そう思って手を繋いだら、妹はそれにもまたはしゃいで喜んだ。
 二人っきりでのお祭り。
 どちらも緊張していたけれど――ただ二人手を繋いで歩く、それだけでも心は浮足立っていた。
 なのに。
 気がつけば、葉留佳の顔から笑顔は消えている。消したのが自分だ思えば、佳奈多は歯噛みしたい気分だった。。
 手は繋いだまま、二人揃って黙って俯くばかり。
「……本当に、怒ってないわ」
 やがて、ぽつりと佳奈多が呟く。それから、小さく――本当に小さく付け加えた。
「私も…楽しいもの」
 佳奈多の言葉に葉留佳が恐る恐る顔をあげ、漸く視線を合わせた二人は、やがて照れたように笑い合った。
 そして今度は、緩んだ笑顔を浮かべた葉留佳が佳奈多の手を引く。
「かなたは、夜店ちゃんと見てないよね?」
「え?」
「やっぱり!えへへー今度はちゃんと見て歩こうよ!」
「ちょっ…!」
 佳奈多の手を少しばかり強引に引いて、葉留佳は無邪気にお祭りの只中へと舞い戻る。
 焦りながら、けれどその笑顔に引き込まれ、佳奈多の顔にも苦笑交じりの笑みが浮かぶ。
 それからは楽しかった。射的をしたり、クジをひいたり、金魚掬いもした。お腹が空いて、一パックの焼きソバを二人で突いて。
「楽しいね、かなたっ!」
「ええ」
 言葉は素直に零れ出た。笑顔も。そうしたら、葉留佳もとびっきりの笑顔を見せた。
 ああ、二人だけなら、こんなにも楽しい。
 佳奈多にとって、それはきっと人生で一番幸福に近づけた瞬間で、そして、おそらく葉留佳にとっても同じだった。
 楽しい時間が過ぎるのは早い。
 ほんの三十分程と決めていたはずが、一時間、二時間と延び――。
 やがて、抜け出した事が確実に家の人間にバレただろうと思えるほどの時間が過ぎていた。
 それに気付いてから、どちらからともなく、足取りが重くなる。
「――帰りたくない」
 泣くのを我慢しているような声で葉留佳が言った。
 帰りたくない。
 佳奈多も、そう言いたかった。
 それとも二人でこのままどこかに行ってしまおうか。
 手を繋いで。
 ――けれど、そんな事は出来ない。
 佳奈多も葉留佳も、何の力もない子供で――あらゆる意味で大人の力には敵わない。
 例えどこに逃げても、捕まるのは目に見えている。そしてその後には地獄の責め苦が待っているだろう。
 佳奈多は、逃げることすらままならない自分たちの境遇に、乾いた笑みを浮かべる。
 家に戻れば、また――二人は競い合う事になって、対立させられて、まるで憎しみ合う様に仕向けられる。
 葉留佳の笑顔はまた消える。消すのは私だ、と佳奈多は自嘲した。
 また、この子から笑顔を奪う。小さな喜びも、幸せも少しずつ奪って、そうやって――自分はきっと、この子から全てを取り上げる。
 そのための存在なのだ。二木佳奈多は、三枝葉留佳から全てを取り上げる。
 佳奈多は、じっと葉留佳を見つめる。もう、覚悟はしている。三枝葉留佳を――いつか解放する為に、二木佳奈多は鬼になる。
 これから先自分は、この子に…何一つ与えない。命以外の全て奪う。――だから。
「はるか。ちょっとここで待ってて。いいわね?」
「かなた…?」
「――動くんじゃないわよ!」
 言い置いて、佳奈多は慌てて夜店へと駈け出した。
 覗いた夜店の中で、葉留佳が一番瞳を輝かせていたもの――欲しがっていたもの。
 決して欲しいとは言わなかったけれど。
 裸電球に縁取られた一軒の露店の前で、佳奈多は立ち止まる。
 キラキラと宝石のように輝く――ビー玉の海。
 元々手持ちは少なく、少しばかり遊んで食べ物も買ったから、もう財布の中身はほとんど残っていない。
 沢山のビー玉の中から、葉留佳が気に入りそうなものをと忙しく視線を巡らせ、――そして、赤紫のマーブル模様のそれに目を留めた。
 佳奈多は迷わずそれを一袋だけ購入した。小さな手にすっぽり納まる程の小さな袋だ。それを持って、人の合間を縫って葉留佳の元へと急ぎ戻る。
 動くなと告げた場所からは少し離れて、近くの屋台を覗く葉留佳を見つける。
 同時に葉留佳も佳奈多を見つけ、ぱっと笑顔になった。
「かなたっ」
「――これ」
 駆け寄ってきた葉留佳に、佳奈多は手にしていた物を差し出した。それを見た葉留佳の瞳が大きく開かれる。
「…ビー玉っ…」
「貴方にあげるわ」
「え…?」
「これは貴方のものよ。いい?これは…私が貴方にあげたものだから、絶対誰にも奪わせたりしないから」
 言い含めるように、佳奈多は真摯に告げる。
 だがこれは――自分への言い訳かもしれない、と佳奈多は思う。葉留佳からあらゆる物を奪う――その贖罪。
 葉留佳が許す訳もないと分かっていながら、それでも心の片隅で、…いつか、許してくれはしないかと浅ましく願う。
 ビー玉を佳奈多から受け取った葉留佳は、それをマジマジと見つめ――やがて、無邪気に笑った。
 目を輝かせてビー玉を半分だけ掌に載せ、そしてその手を前へと突き出す。
「はい!」
「――…?」
「半分こ、しよっ」
 その幼い笑みに、佳奈多は泣き笑いのような顔を返す。二人の掌に、ビー玉が載る。
 キラキラと、露店の光を照り返すビー玉を見つめ、二人は顔を見合せて、微笑んだ。
「ねぇ、はるか」
「なに?」
「――貴方は、私が守るから」
「ぅん?」
「絶対に絶対に、――いつか…幸せになるのよ」
「今は幸せじゃないの?」
 そう言った妹の瞳に浮かぶのは無垢な光だけだ。今は、まだ。
 三枝葉留佳は、狭く小さな世界で生きている。そこでは、幸と不幸の判断基準すら曖昧だ。彼女は、自分の不遇を嘆くことすら知らない。
 ”幸せ”を知らないのだから、――不幸を分かるはずもなかった。
「今より、ずっとよ、もっともっとずっとずっと、幸せになるの。私が、そうするから」
「どうしてかたながするの?」
 他意なく、邪気なく傾げられた小さな首に、佳奈多は言葉を詰まらせる。
 これから犯す罪への贖罪。これから、全てを奪うのだと――それは、幼い彼女たちの心にはあまりに重すぎる懺悔。
 ぱっくりと口を開けた深淵を足元に感じながら、けれど、佳奈多はそれに呑み込まれまい心を落ち着ける。
 浅ましく、汚いばかりの人間に囲まれて、何が正しく何が間違っているのか分からない。けれど――渦巻く虚偽と虚妄の中から、佳奈多はたった一つの真実だけを掬い上げる。
「だって……私は、はるかのお姉ちゃんだもの」
 歪み切った関係の中で育まれた、たった一つの正しい関係。葉留佳と佳奈多が姉妹であるということ。きっとそれだけが正しく真実だ。
 葉留佳が、口の中で小さく「おねえちゃん」と呟く。何度も、何度も。
「おねえちゃん…そっかぁ。かなたは、わたしのおねえちゃんだもんね」
 幼く、儚く、無垢に笑う。
 佳奈多は、妹の小さな手を掴む。見下ろした自分の手も大きくはなかったけれど、それでも、この手はきっと、葉留佳を守るだろう。
 片方の手にはビー玉を握りしめ、もう片方の手はしっかりと繋ぐ。
 もう、こんな風に手を繋げる日は来ないかもしれない。けれど、本当はそれでいい。
 神なんか信じない。だから、佳奈多はこの小さな妹の手に誓う。
 
 私は、この子を守る。
 この子が、強く生きられるようになるまで。
 この子が、居場所を見つけられるまで。

 もし、貴方が強く生きられると――そう思った時は、いつでも自由に飛び立って、幸せになりなさい。

 地べたを這いずってでも生きて、幸せを掴みなさい。
 罪深い私は――あなたと同じ地面にすら立てないでしょうけれど。
 例え地獄からでも、見上げている。

 貴方は、私の妹。それだけが、私の真実だから。

 
 
 
 
 

あとがき
 こんなん書いてしまいまいしたが、妄想です(笑)まぁ、EXではこの辺りもやってくれるんですかねぇ。

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