ばら撒かれる中傷のビラ。けれど本当の悪夢はこれからだ。
二木佳奈多と三枝葉留佳は姉妹――その噂が、更なる悪夢の開始を告げる。
真実を知る少女が、虚構世界で悲鳴を上げる。
――止めなさい止めなさい止めなさい止めなさい止めて止めて止めて!
往生際が悪いな、と男が呟く。
まぁいい。せいぜい足掻け。どうせ――願いを叶える神など居やしない。
*
コンクリートを踏む靴。青葉の繁る街路樹。
佳奈多は、ふと顔を上げて――ここは何処だろう、と思った。
今自分は何をしているのだったか。
見上げた空は赤紫色。雲と混じり合ってマーブル模様に見える。もうこんな時間か。そう言えば、家へ帰る所だったと『思い出す』。
「早く…帰らなきゃ」
今日は特別な日だ。佳奈多と葉留佳のどちらかが、選ばれる日。
選ばれるのは、きっと自分だろうと佳奈多は思う。そうでなければ意味がない。今までその為だけに生きてきたのだ。
――私が選ばれるのよ。
だって、あの子にはもう何も残ってないもの。
全て奪った。全て取り上げた。徹底的に。
だから大丈夫。選ばれるべき要素は、もう一つだって葉留佳には残っていないはず。
不意に、景色がぐにゃりと歪んだ。
佳奈多は、畳みの上に正座している。周囲には親戚縁者が座し、佳奈多の隣には葉留佳。
――ああ…これから”選ばれる”んだ。
さぁ、どちらがふさわしい?
今度は時間が跳ぶ。
周囲には誰もいない。先ほどまで本家やら分家やらの人間で埋まっていた広間の中に、葉留佳と佳奈多の二人だけが残されていた。
「…葉留佳…」
自分の背後にいるはずの妹へ、佳奈多は震える声で呼びかける。
胸の内にあるのは喜び。
――私が選ばれた。
これでやっと…葉留佳と話が出来る。葉留佳と手を繋げる。葉留佳を守れる。葉留佳と葉留佳を葉留佳に――!
何年も浮かべていなかった満面の笑みで、佳奈多は妹の名を呼ぶ。
「葉留佳っ」
がむしゃらに前だけを向いてきた佳奈多が、漸く振り返った時――そこにいたのは。
「……しんじゃえ…」
虚ろな瞳。
何の感情もこもらないその言葉は、佳奈多に向けられたものではない。それは、他でもない葉留佳自身へ向けての言葉だった。
三枝や二木の人間が、葉留佳に言い続けた言葉かもしれない。
泣きも、喚きも、怒りも、憎みすらせず――葉留佳はもう一度呟いた。
「私なんか、しんじゃえ…」
全てを奪われ搾取され尽くし、生きるよすがも目的も――気力すら失った、哀れな妹の姿。
まるで生きる屍だった。
本当に全てを――奪ってしまった。
「よかったねかなたはやっぱりすごいねすごいねすごいね」
「はるっ…!」
壊れた妹に手を伸ばす。
けれどその手は届かない。
ツインテールの後姿が去っていく。
「待ちなさい…待って!」
走ろうとした爪先に、何かがこつりと当たる。
赤紫のマーブル模様。
『はい!』
幼い笑みが目の前にあった。差し出されるビー玉。佳奈多の両手一杯に載る。
それがバラリと零れ落ちる。
どうしようもなく――零れて、落ちていく。
落ちる――堕ちる。
――止めてっ……止めて止めて…誰か止めてぇぇーーっ!
*
目を――開く。
琥珀色の瞳が捉えたのは、だが白く煙ぶる曖昧な世界だけだった。
「――」
佳奈多は、目を瞬いて、己の立ち位置を確認する。雲上に立っているような、奇妙な浮遊感。
ここは――”会議室”だ。時折皆が集まって、話し合いをする場所。どうしてこんな所にいるのだろう?
そういえば、夢を見ていたような気がするけれど。
何だったかしら、と胸に手を当てればひどい動悸がして、悪夢だと知れた。
何気なくポケットに入れた指先に、冷たく硬い感触。その丸い硬質な物質に、佳奈多の目が驚愕に見開かれる。
その瞬間――。
「甘いな、お前は」
ぞっとするような声が響いた。
振り向いた佳奈多の前に、――悪魔が、立っていた。この世界へと佳奈多を誘い入れた、この世界の主。
「貴方は――どうしてここに」
「お前に忠告しに、だ」
「忠告?」
「随分と、のんびりやってるようじゃないか」
その言葉に、一瞬だけ肝が冷える。時間はある――そう言ったのはこの男だ。だから、佳奈多は性急に事を進めていない。
多少のいざこざはあったが、葉留佳にも、必要以上には接していなかった。
――そうすれば、より長く葉留佳とともにいられる。その打算を、――底の浅い思惑を、きっとこの悪魔は見抜いているだろう。
だが、佳奈多はいかにも平然と振舞った。この男に僅かでも隙を見せたら、負けだ。そこからあっという間に侵食されて、操られ、全て利用される。
「ちゃんと、役目は果たしているわ」
「そうか?だが、その割には追い詰め方が足りないな」
「…足りない、ですって…?」
「ああ、足りない。――もっと追い詰めろ。ぎりぎりまで…それこそ死ぬ気でな」
「っ…もう、やってるわよっ」
「あの程度がお前の本気か?…もしそうなら、お前は用済みだな」
「何ですってっ…!?」
「言っただろう。三枝に優しくは出来ないと。――役目を忘れた役者に用はない」
「っ…!」
冷徹に吐き捨てられる言葉に、佳奈多は関節が白くなるほど拳を握り締める。手の中に、ビー玉を押し込めて。
今、この男の言う事に逆らえば、――自分は、二度と葉留佳と会えなくなる。
――嫌だっ…!
「わ、かったわ…」
「…ふぅん?やれるのか?」
その冷笑が癪に障る。佳奈多は半ば自棄に叫んだ。
「やるわよっ」
「そっか。なら――」
男の足が音もなく踏み出され、佳奈多に近づく。脇を通り抜けざま、その耳元に、低く声を落とす。
「――三枝から、全てを奪え」
「っ」
「きっかけはもう俺が作ってやったろう。お前はだた、蔑んで罵倒して、いたぶればいい。…簡単だろう?」
昔、お前がやっていた事だ、と嗤う男に、佳奈多は蒼白な顔のまま、突っ立っていることしかできない。
この世界では、この悪魔に出来ないことなどなかった。全てを知っている。全てを知られている。まさに全知全能だ。
封印した過去も心に巣くう闇も、全員のすべてが、筒抜けなのだ。
「せいぜい後悔しないようにな」
そう言って佳奈多の肩を叩いた後、やおら男は声を立てて笑った。――嗤った。
耳障りな哄笑だけを残して男が去ってから、佳奈多は詰めていた息を吐き出す。
分かっていた事だ。葉留佳に優しくできないと。知っていて来た。だから…後悔などするものか。
手の平にビー玉を握りしめ、――自嘲する。
――ロクデナシの役立たずは、私じゃない…。
妹に憎まれるぐらいしか能がない。
本当の親?そんなものは何の意味もない。ロクデナシで役立たずで――最低の人間だ、自分は。そんな人間が”選ばれる”というのだから、三枝家の末路などたかが知れている。
いや……そんな人間だからこそ、選ばれたのか。
葉留佳から全てを奪って、何一つ与えることなく、そうして思惑通り、佳奈多は”選ばれた”。
その代償は、…壊れた妹。
贖えない罪を背負ったと気付いたのはその時だ。
今更のように居場所を与えようとして、両親を探して葉留佳と一緒に住まわせた。
佳奈多が最も大切なものを犠牲にして手にいれた権力は、だがその程度にしか役立たない。
暇さえあれば”実家”へ通い、やがて――漸く葉留佳が見せた反応は、憎悪の声。
”死んじゃえっ…”
恨みの籠った視線。葉留佳自身へではなく、佳奈多に向かって吐き出された怨嗟。
その時、心の底から安堵したのを、佳奈多は今でも覚えている。
もしも憎む事で強く生きられるなら、それもいいと思った。
憎め。二木佳奈多を憎め。三枝を憎め。両親を憎め。全てを憎め。
それで…強く生きられるというのなら。
守るはずの手は、繋ぐはずの手は――もはや汚れ過ぎた。
妹の手を取ることは許されない。
ならばせめて、憎まれよう。
憎む事で強く生きて欲しかった。けれど葉留佳は、強く憎む事でしか生きられなくなってしまった。滑稽な話だ。
それでも――少しずつ、本当に僅かづつだったけれど、歩み寄り始めていた、と思う。
――あんな事が、なければっ…!
学内でばら撒かれたビラ。そのせいで、葉留佳の心は再び閉ざされた。そればかりではない。
縁を切ったとはいえ、葉留佳は依然として三枝の姓を負ったままだ。体面を何より重んじる本家が、葉留佳を問題視し始める。
佳奈多は噂の揉み消しに躍起になった。どうにか鎮火して、それでもまだ神経をとがらせる本家を抑えるために、葉留佳と距離を取った。
だがまるで当てつけるように葉留佳の勝手な行動が多くなって、――それを注意すれば喧嘩になった。
歩み寄り始めていた距離が遠くなって、通じない心にお互いささくれ立って。
すれ違ったまま修学旅行がきて。
葉留佳が違うバスに乗ったのは、自分のせいだ。
だから、後悔しないために――ここに、来たのだ。
ふと、ついさっき男が残していった言葉を思い出し、感情すら先読みされていた事に気付けば、吐き気がした。
「くっ…」
思わずもれた苦悶の声に、まるで助けのよう空間が揺れる。
「おっと…君か…どうした、顔色が悪いようだが」
現れたのは、来ヶ谷だった。佳奈多は我知らず安堵の息を吐く。
「何でもありません。…貴方こそどうしてここに?」
「恭介氏がこっちへ向かう気配を感じてな。何となく追ってみたのだが…なにか言われたのか?」
「……」
佳奈多は、無言で首を振る。役目――この世界での、役割。ここでは、直枝理樹と棗鈴以外の全てが、道具だ。
道具の本分は、意思を持たず操られること。それがこの世界での全員の役割。
――私の、大事な葉留佳ですら、あの男は…操って利用する。
そう思ってふと、来ヶ谷へと目を向ける。
「貴方は、あの男に黙って利用される気ですか?」
「ふむ。まぁ…それは少々面白くはないが」
「――私に、協力する気は」
「それは以前から断っているだろう。――この世界の秩序を、永遠に保つなど無理だよ。ここはいずれ壊れる。――どんなに長く思えても、時間というのは案外短いものだ」
そこに達観したような英知を見て、佳奈多はため息をつく。
来ヶ谷位だろう。あの――悪魔に対抗できるのは。彼女の協力なしに、佳奈多一人で立ち向かうには、相手が悪すぎる。
「このままじゃ、本当に全て、あの男の思うままね…」
「しかたあるまい?この世界では、奴こそが神だからな」
「神…?」
来ヶ谷の言葉を繰り返し、佳奈多は嘲るように笑った。――嗤った。
「神なんかいるものですか…」
――この地獄にいるのは、唯の、悪魔だ。
あとがき
久々書いたのがこれって…そうとうやられてるな、俺……。
いや、なんつーかですね、たぶん、現実での葉留佳と佳奈多は、ループ世界でのやりとりのような険悪な仲ではなかったと思うのですよ。
葉留佳の弱さは理樹の弱さと直結してます。「こんな思いをするなら生まれてこなきゃよかった」――この弱さを克服しないと、強く生きるなんて、到底できそうもない。
だから、葉留佳の傷を抉り出す事で、理樹にその弱さを克服させようと恭介が目論んで、佳奈多は巻き込まれた形かと。
ま、結局葉留佳が生きていてさえくれればよかった、ってのが佳奈多の望みかな、というのは私の中では変わらず。
でも多分間違ってる考察です(笑)考察より先に、キャラに愛がいっちゃったからね…。
しかしまたもや黒恭介…(笑)うちの恭介は、どんな馬鹿やってても裏にはこの顔隠してますからねぇ…。
どの話も根っこの性格は共通。恭介側の視点がないので真っ黒に見えますが…ちゃんと優しい奴ですよっ!?
笑ったのも寧ろ自嘲ですからっ。…多分っ。