”みやざわくん”
はじめてなまえをよんだ日。
ぼくがそういったら、みやざわくんはちょっとかんがえてから、しずかにいった。
”みやざわ、でいい”
”みやざわ、でいいの?”
”したのなまえはけんごだ。だが、まだなれないだろう?”
”あ、あの…ぼくっ……”
”そんなに、いそがなくていい”
”っ!……う、うんっ…”
例えば、僕の足が皆より少しだけ遅れた時。
恭介なら、手を引っ張って連れていく。
真人は一緒に肩を組んで歩いてくれる。
鈴は付かず離れず傍にいて。
それから謙吾は、黙って僕が追い付くのを待っている。
小さい時から、ずっと――それは今も変わらない。
*
――あとで二人で出掛けないか?
そう謙吾に切り出されたのは、日曜の昼の事だった。
謙吾から遊びに誘ってくるなんて珍しい。どうしたんだろうとは思ったけれど、もちろん快諾した。
断る理由なんてない。待ち合わせは寮の玄関。
だけど、行き先も告げられず、謙吾の行きそうな所も予測はつかなくて、僕はちょっと戸惑いながら出かける用意をした。
寮の玄関に到着した時は、そこにはもう謙吾の姿があった。
怪我をした腕の包帯は痛々しいけれど、後姿も姿勢よく、きりりと立っている。
「ごめん、待たせちゃったね」
「いや、俺も今来た所だ」
そんな会話をしてから、ふとまるで恋人同士のような遣り取りだと思って、思わず笑ってしまう。
謙吾は気付かず、不思議そうに僕を見下ろしてくる。
「どうした、理樹」
「や、なんかさ…謙吾と待ち合わせして遊びに行くなんて、あんまりなかったから新鮮だなって思って」
これが真人なら待ち合わせなんていらないし、恭介なら準備なんてさせずに部屋から僕を連れ出していくだろう。
律儀にこっちの都合を聞いて用意に時間をくれるのなんて、たぶん謙吾位だと思う。
謙吾は、そういえばそうだな、と生真面目な顔で頷く。
「あまり…二人で出掛けた事もなかったな」
「うん。急にどうしたのかと思ったよ」
「――そう、だな」
謙吾は苦笑しただけで、それ以上理由は言わなかった。
気にはなったけど、謙吾なりの考えがあるんだろうと解釈して、言及はしない。
みんないた方が楽しい気もするけど、たまには二人で話をしたい事だってあるよね。
もしかして、なんか悩んでたりするのかな。僕で力になれるならいいけど…。
そんな風に考えながら、二人で校門を出る。
空は快晴で、澄み切った青が目に痛いほどだった。
謙吾からは未だにどこに行くかという話は出なくて、だけどなんだか颯爽と歩いていくから、僕はただその後をついていく。
広い背中は、一定の距離を保って僕の前にある。決して距離が離れることはない。
僕の歩く速度に合わせて、追いつけるように気を配ってくれている。
振り向かない一見無愛想な背中だけど、それが本当はとても優しくて、頼りになるのを僕は知っている。
ふと小さい時の事を思い出して、思わず笑みがこぼれた。
「ねぇ謙吾。覚えてる?ええとなんて言ったっけ…忘れちゃったけど、近所の犬相手にさ、初めて一緒にミッションした時の事」
「――ああ、覚えているとも。忘れる訳がないだろう。…懐かしいな」
「うん…」
謙吾は昔から、先頭に立つよりも、後方から皆の安全を確認する癖がある。
それを癖、というのもおかしいけれど、リトルバスターズが何かミッションをこなす時、殆ど場合謙吾は、最後尾を守ってくれていた。
出会って最初の頃、僕は大概恭介に手を繋いで貰っていて、だから謙吾の背中を見ながら歩いた事はなかった。
自分から皆に話しかけるのもまだ躊躇があって、皆に名前で呼べと言われながら、それも上手く出来なくて。
それでも、ちょっとずつみんなと打ち解けて。
そんな時だったと思う。近所でも猛犬がいると噂の家の前に連れていかれて、ミッションが始まった。
犬にどこまで近づけるか、という、今思えばバカみたいなものだったけど、僕らにしてみれば本気だった。
恭介はリーダーだから一人で行くと豪語して、残った僕らは二人でペアを組んだ。
珍しく恭介の作ってきたくじ引きでペア分け。結果は、真人と鈴、僕と謙吾のペア。
順番はジャンケンで決めたら、一番手は僕らだった。
「あの時さ、まだ謙吾の事だけ、名前で呼べてなかったんだよね」
「そうだな…。あれが最初だった」
恭介や真人は凄く話しかけてくれたし、鈴だって気がついたらいつも傍にいてくれた。その上名前で呼べと毎日迫られていたから、必然的にこの三人は、名前で呼ばざるを得なくなっていた。
でも、謙吾は大抵ちょっと離れた所にいて、それに無口だったから、そんなに話もしなかった。
会話があっても、一言二言…そんな感じ。苦手という程の事はなかったけど、怖いような印象は持っていたように思う。
そんな謙吾とペアになって、情けなく戸惑うばかりの僕に、だけど謙吾は落ち着いて言ってくれた。
”あんしんしろ。おまえは、おれがまもってやる”
謙吾だって怖かったはずなのに、あの犬が平気だって事は絶対なかったはずなのに、僕を背中に庇って前に出てくれた。
目測で鎖の長さを考えて、ここまでと線を決めた。辺りをウロウロしていた犬が小屋に戻ったところを見計らって、二人でそこまでダッシュして。
だけど――思ったより、犬の鎖が長くて。
飛びかかってきた犬を見て、僕は足が竦んだ。謙吾は――動けない僕を背中に庇って、犬の前に立ったんだ。
僕の視界には謙吾の背中だけ。誰かが――多分恭介と真人が謙吾の名前を叫んで、その瞬間、僕も謙吾の名前を叫んでた。
鎖は、結局ほんとにぎりぎりで、鋭い犬歯は謙吾の数ミリ先で口を閉じた。
「あの時はごめんね」
「昔の話だろう。それに、お前が悪いわけじゃない」
「謙吾、昔のまんまだなぁ。確かあの時もそう言ってたよ」
「…そうだったか?」
その辺は覚えていない、と謙吾。
人を責めたり、そういう事を良しとはしない性分だから、きっと謙吾にとっては当たり前のセリフだったんだろう。
「でもさ、あれから…”謙吾”って呼べるようになったんだよね」
思い返してみれば、もしかしあのミッションは、僕に謙吾の名前を呼ばせるために、恭介が仕組んだものかもしれない。
まあ今更聞いた所で、恭介はどうだったかなと空惚けるんだろうけどね。
「でもそういえば、危険なミッションの時は必ず恭介が一番手やるようになったのも、あれからだよね」
「まあ、あいつもあれで一応はリーダーだからな」
他愛なく、謙吾と二人で話す。
それから学校の勉強がどうとか、バトルがどうとか。
野球の試合はどうするとか…そんな話をして。
もう随分と歩いている気がしたから、流石に気になって言ってみた。
「謙吾。どこまで行くの?」
「――ここだ。理樹」
聞いた途端に謙吾が立ち止まる。
ここ…?
比較的学校の近くにある河原。別にどうという事もない普通の場所だけど…。
首を傾げる僕に構わず、謙吾は河川敷に降りていく。
「――理樹も来ないか?こっちの方が気持ちいいぞ」
「うん」
ここに一人でいても意味はないし、僕もすぐに謙吾の後を追う。
謙吾は、草の上にどかりと腰を降ろして、それから寝転がった。
恭介や真人がいる時ならともかく、謙吾はあんまり自分から進んでそういう事をしないから、ちょっと意外な気もした。
寝転んだまま、謙吾が片目だけをちらりと開けて僕を見る。
「…気持ちいいぞ?」
「う、うん…じゃあ、僕も」
戸惑いつつも謙吾の隣に横になる。
途端に視界を埋める、どこまでも澄み切った青い空。
「気持ちいいね…」
遠くに鳥の声を聞きながら、ゆっくり目を閉じる。
暖かい日差しと、ゆるやかな風、草の擦れ合うざわめき。
隣には謙吾がいて、その大きな安心感に、身体が弛緩していく。
青い空と、吹き抜ける心地よい風に包まれて、僕はいつの間にか寝入っていた。
どこか――懐かしい光景が目の前に広がる。
知り合った皆が楽しそうに笑っていて。
学校近くの河川敷で、皆で写真を撮っていた。
それから、見たこともない何かのパーティーをやって。
そんな経験はないはずなのに、それでもどうしてか懐かしい想いを呼び起こす。
皆が…笑ってる。
その輪に入ろうと僕は手を伸ばす。
誰かの笑顔が、目の前でぱちんと弾けて消えた。
まるでシャボン玉が割れるように、手を触れようとするたび、ぱちんと消えていく。
きっとすごく悲しい事のはずなのに、だけど、皆笑顔のままで消えていく。
消えてしまった笑顔には、もう、二度と触れる事もできなくて――。
悲しくて哀しくて――愛しくて。
独りが寂しくて苦しくて。
泣き叫ぼうとした僕を、誰かが強く抱きしめた。
”あんしんしろ。おまえは、おれがまもってやる”
「――樹!理樹っ」
「っ…」
はっと目を見開く。心配そうに僕を覗き込む謙吾の顔。
その背後の空はまだ綺麗な青色で、眠った時間は少しだったと悟る。
大丈夫かと聞かれて、反射的に大丈夫だよと頷いた。
「だが…」
「ごめん、ホント大丈夫。ちょっと変な夢見ただけだから」
そう…何か――夢をみたような。
どんな夢だったのか、思いだそうとしてもそれは、記憶の隙間から零れ落ちていく。
儚く消えていく夢の残滓は、ただ、僕の胸を痛く締め付ける。
夢が痛かったのか、それとも思い出せない事が痛いのか、それすら分からないまま――。
まだ謙吾は僕を心配そうに見ていて、だから僕は笑って見せた。
もう大丈夫だよと、そう言ったら、謙吾はなんだか複雑な顔をした。
苦笑のような――だけど、凄く辛いような。
「…謙吾…?」
「――そうか、もう大丈夫、か…」
「?僕、なんか変な事言った?」
「いや…」
首を横に振って、謙吾は視線を落とす。やがて、鋭い両眼が僕を射抜く。澄み切った目。
「理樹。――強く、なりたいか」
「え…」
「強くなりたいか」
その言葉の意味する所が分からず混乱したけれど、でも、僕だって男だ。強くなりたいと思うに決まってる。
だから、僕ははっきり頷いた。
「強くなりたいよ」
そう言った瞬間。
辛く悲しくけれど耐えるように――謙吾の顔が歪んで。
僕は――謙吾が、泣くと思った。
だけどそんな顔を見たのは一瞬で、僕は気付くと謙吾の腕の中にいた。
「けんごっ…?」
謙吾は無言で、片腕で痛いほど僕を抱きしめてくる。
どうしたらいいのか分からなくて、だけど、もしさっきの顔が見間違いじゃないなら、泣いているのかもしれないと思った。
だから、僕は腕をのばして、広くて優しい背中をそっと撫でる。
「…謙吾、大丈夫?」
「――俺なら、大丈夫だ」
「ん。そっか…」
どうしてだろう。なんだか謙吾がすごく子供に思えた。僕はまるであやす様に謙吾を背中を撫でつづける。
謙吾は、昔から自分の事を多くは語らないけれど、きっと――何か辛い事があったんだろうと思った。
今日突然遊びになんて誘ってきたのは、その何かが理由かもしれない。
高校生の男子が二人、河川敷で何をやってるんだろうと思いながら、突き放すなんて思い浮かびもせず、僕は謙吾のするままに任せた。
やがて、腕の力がそろそろと緩む。
「…すまん、理樹」
「いいよ。それより大丈夫?」
「ああ」
頷く謙吾の顔はしっかりしていて、泣いていたようには思えなかった。
僕の勘違いだったのか…。
謙吾は、照れたように目元を赤く染めて立ち上がる。
「その、お前は大丈夫なのか?」
「僕は大丈夫だってば」
「そうか。なら――そろそろ戻ろうか」
「うん」
照れ隠しなのか、早足で土手を上がっていく謙吾の姿に、ちょっとだけ笑ってしまう。
よく分からないけど、人肌恋しい、みたいなことだったのかな。
別にそれならそれで言ってくれればいいのに。
謙吾の隣に走り寄って、それからふと燻っていた疑問をぶつけてみる。
「ねぇ謙吾?今日ってさ、何のためにここに来たの?」
何か相談があるのかと思ったのに、結局それもなかったし。
「――お前と」
謙吾は、一度言葉を切ってまっすぐ僕を見る。
「お前と、もっと一緒にいれば良かったと思ったんだ」
「僕と…?」
「二人で出掛けた事なんて殆どなかっただろう。だから、そういうのも経験しておきたいと思った」
「何だ…僕でよければ別にいつでも付き合うから、言ってよ」
「――ああ。そうだな。…どうしてもっと早く、俺は…」
「別に今からだって遅くないだろ?時間なんて沢山あるんだから」
「そう…だな」
「次はどこに行こっか。ゲームセンターとかならでも皆で行った方が盛り上がるかなぁ」
河川敷でお昼寝っていうのも案外隠れたベストコースかもしれないね、なんて話をして、謙吾と二人、学校への道程を辿る。
やがて道も中程で、バトルの話になって、強くなるにはどうしたらいいか、なんて話題が出る。
謙吾は顎に手を当て、片目で僕を見ながら突然提案してきた。
「――強くなりたいなら……そうだな、まずはバトルで俺を倒してみるというのはどうだ?」
「え、ええ!?そ、そんなの無理だよ…」
一体何を言うのかと目を丸くした僕に、謙吾は優しく微笑む。
「お前とバトルか…ふむ、頑張って俺に挑戦できる順位まで上がってこい、理樹」
「ええー…」
「どうした、強くなりたいのだろう?」
「そうだけど…わかったよ。じゃあ、ちゃんと一位で待っててね?」
「俺を誰だと思ってる」
連戦連勝無敗の男だと、そう自信満々に謙吾は言い放つ。
じゃあ僕も負けちゃうじゃないかと文句を言っても、謙吾は頑張れと笑うばかり。
いつだって自分の言葉に二言のない謙吾だ。僕が追い付くまで、絶対に一位で待っててくれるだろう。
「じゃあ、頑張っていつか追いつくからね」
「ああ。俺はいつまでも待っているぞ。お前が追い付くまでちゃんと待っている。だから、――理樹」
そんなに、急がなくていい――。
そう呟いた謙吾の横顔を見て、僕はやっぱり……泣きそうだと思った。
あとがき
ひさびさ謙理…といいつつ、何この糖度の低さ…。あれだ、ループ世界にしたのがいけなかったか…。ヒロイン何人かクリア後、と。
あれだよね、なんかあった時、恭介は「俺がやっつけてやる」で、真人は「一緒にやっつけようぜ!」で謙吾は「俺が守ってやる」だよね、と勝手妄想した。
謙吾は、ある意味理樹より子供な部分とかあると思うんだ。恭介や真人とはまた違う、がむしゃらに子供な部分が。
でも誰よりも理樹の幸せを願ってる、そんな優しい奴。ぶっちゃけ、一番理樹が幸せになれるの相手は謙吾だと思うよ…。
恭介は、幸せも多いけど苦労も多そうだからな(笑)
恭理は「運命」。真理は「青い鳥は近くにいました」。謙理は「世界で一番幸せにしてあげる」。というイメージが勝手にあるんだ。
天国より野蛮…懐かしい曲を久々聞いたら、これ謙吾の歌じゃん!とか思った私は色々腐っている…。で、つい生まれた話。
そしてあれだ…謙吾視点も書きたくてたまらんのですがどうしようこれ。