天国より野蛮・side Kengo

 ”――けんごっ…!”
 はじめてりきがそうよんだ日。
 おれはうれしかった。
 ほんとうは、うれしいだとかおもっているばあいではなくて、でもうれしかったから、こわかったとかはよくおぼえていない。
 おぼえているのは、それからあとのなきじゃくるりきのかお。
 それをきょうすけがなぐさめて。
 どうしていいのかわからず、おれは、きょうすけのようにだきしめることもできなくて。
 それでもおれはもうきめていた。
 ――おれが、いっしょうりきをまもってやろう。
 やがてようやくなきやんだりきに、おれはせいいっぱいのきもちをつげた。
 ミッションをはじめるまえにも、いったせりふだった。
”あんしんしろ。おまえは、おれがまもってやる”
 だけど。
 なきやんだりきは、ちいさくいった。
”ないてごめんなさい。――もう、だいじょうぶだから…”



 俺はいつも、待っている事しか出来なかった。
 例えば、自ら手を差し伸べて、その手を引いてやる事も。
 例えば、一緒に肩を組んで歩いてやる事も。
 例えば、ただずっと傍についていてやる事も。
 俺は、……なにも出来なくて。


 小さい時から、ずっと――それは今も変わらない。




          *



「理樹」
「あれ、謙吾。どうしたの?」
 日曜の昼。
 俺が理樹の部屋を訪ねると、出迎えたのは理樹一人だった。
 真人のいない時間を見計らったのだから、当然だが。
「理樹、ちょっといいか」
「なに?」
「――あとで二人で出掛けないか?
「二人で?…そりゃ、いいけど…どうしたのさ、急に」
 無垢なままの瞳が、きょとんと俺を見あげる。
 理由を言いあぐねて俺が逡巡すると、理樹はすぐに「まあいいや」と笑顔になった。
「いつ出掛けるの?」
「では、三十分後に寮の玄関で待っている。――それで大丈夫か?」
「うん大丈夫。じゃあ、また後でね」
 特別予定などは無かったようで、すぐに快諾される。断られなかった事に安堵し、それから改めて二人で出掛けると思うと、妙に気持ちが浮足立った。
 これではまるでデートに誘ったようだと、少しばかり気恥ずかしく思う。――いや、その気持ちも、あながち間違いではないのかもしれないが。
 出掛ける用意といっても別段必要なく、俺は一足先に玄関に向かう。
 さて、どこに向かおうか。場所はまだ決めていない。
 真人のように隠れた筋肉スポットとかいう訳の分からん場所は知らないし、恭介のように、理樹を楽しませる話術や遊びも俺はよく知らない。
 どこに――。
 そう思った時、ふと脳裏を懐かしい情景が過った。
 一番最初に皆で写真を撮った場所。
 野球の試合の帰り道、たった一度きりの河原での集合写真。一番……楽しかった日。
 あそこがいい。
 理樹はきっと覚えてはいないだろう。だが、それでもいい。
 あの日から、確かに俺はこの世界で呼吸し始めたのだから。
 この――美しく惨たらしい世界を、守ろうと思った日。
 だがその守るべき世界も――やがては消える。
 時間は、ない。
 理樹を待ちながら、たった数時間前の、恭介との会話を俺は思い出していた。



”次こそ理樹を強くする。俺がそうする――絶対に”
 どこか危険な色すら孕んだ血のように赤い双眸で、恭介はそう宣言した。
 その姿を焦っていると捉えた俺は、訝しく思った。
 なぜだ。
 どうしてそんなに急ぐ必要がある。
 ゆっくり見守っていけばいいだろう。
 これまでの繰り返しの虚構世界で、幾度も見てきた理樹の辛そうな顔が脳裏に浮かび、苦い想いが湧き上がる。
 無理矢理理樹を強くしようとしても、その幼く弱い心を傷つけるだけだといい加減に気づけ、恭介。
 急いては事を仕損じると言うだろう――そう俺が提言すると、恭介は首を横に振った。
”――時間がないんだよ、もう”
 深刻な表情で告げられたその言葉に、戦慄が走った。
 時間が、ない?
 そんな馬鹿な。何を言っている。時間はたくさんあるはずだ、まだまだずっと、この世界は続くはずで。
”もう、猶予はない”
 そろそろ年貢の納め時さ、と恭介は乾いた笑みを浮かべる。
 強張った俺の顔は見て見ぬ振りをして、そうして奴は、如何にも独善的に呟いた。
”大丈夫だ。きっと次こそ上手くいく。今度こそ理樹は、強くなる”
 そう言って何度失敗した――せり上がってきたきた台詞を、喉の奥で押し殺す。
 お前だって分かっているだろう、恭介。
 理樹はまだまだ子供だ。鈴を守ってやる所か、自分の事だって守れやしない。
 あいつはまだ弱いままだ。俺達が守ってやらなくてどうする。こんな中途半端な状態で、突き放すつもりか。
 それこそ――死なせてしまうじゃないかっ…!
 反駁する俺に、だが、奴は目を伏せて同じ言葉を吐くだけだった。
 時間は、もうないんだ、と。



 それから、居ても立ってもいられず、気付けば俺は理樹の部屋の前に来ていた。
 時間がないと言われた時、何より真っ先に浮かんだのは、理樹と話をする事だった。
 理樹の顔が見たかった。理樹のその手を引いて、肩を組んで、ずっと傍についていてやりたいと思った。
 そういえば二人で出掛けた事も殆どない。俺が――待っているばかりだったせいで。
 どうしてだ、と今更のように後悔した。
 幼い頃からずっと、理樹の事を、とても大事に思っていたのに。
 リトルバスターズの紅一点だった鈴は勿論誰より守られるべき者だと認識していたが、理樹に感じる想いはまた別物だった。
 無性に大切で、理樹が笑うと嬉しくて、理樹が泣くと――俺まで泣きたくなった。
 何があっても一生守ってやるとそう心に決めている相手。絶対に、誰にも傷つけさせはしないと。
 そんな大事な相手だからこそ、俺は臆病だったのかもしれない。だが、時間がない。
 なら、なんでもいいから思いついた事をしようと思った。
 今まで出来なかった事を全部やってしまえ。この世界ではそれが可能だ。俺は…この世界でならそれが出来る。
 手を繋いで、それから肩を組んで、ずっと傍にいて――。
 理樹を待ちながら、澄み渡る青空を眺め、本当にそう出来たらいい、とだけ思った。


          *


「いい天気だね」
「そうだな」
 斜め後方から聞こえてくる声。
 結局俺達は、手を繋ぐ事もなく、肩を組む事もなく、並んで歩きすらせず、一定の距離を保って足を進めていた。
 この期に及んで臆病風に吹かれた訳ではない。断じてない。
 ただ…理樹が、まるで当たり前の様に俺の斜め後ろに立ったから――それだけの事だ。
 幼い頃からの関係は、今も変わらずここにある。
 それは嬉しくもあり同時に寂しくもあったが、それならそれでいいと思う。
 俺と理樹の関係は、きっとこれが自然なのだろう。少しだけ距離を保って、俺は理樹の気配と足音が決してそれ以上は離れないよう気を付けながら、ゆっくり歩く。
 ふと、懐かしいなと思った。
 ずっと昔に、こんな風に理樹と歩いた事があった。
 あれは確か――近所の犬の…。
 そう思った時、まるで俺の思考を読み取ったかのように、理樹が「覚えてる?」と話しかけてきた。
 初めて俺と理樹の二人で挑戦した、近所の犬でのミッションの思い出話。
 俺が今まさに思った事と同じで、――気持が触れ合うというのはこういう心地かと、静かにだが確実に気分が高揚していく。
 あの当時、まだ理樹は俺の事だけを下の名前で呼べていなかった。それはそうだろう。
 常に少しだけ距離を持って理樹と接していた。それに俺は、どうでもいい事には口が回るくせに、肝心な事では途端に口下手になるような節があった。
 皮肉屋、とういう程のものではなかったが、あの年代の子供にしてはシニカルな考え方を持っていたし、恭介や真人、鈴のように理樹に纏わりついたりもしなかった。
 他の奴らのように、下の名前で呼べとも、俺は理樹に言えなかった。
 無理矢理呼ばせるのは好きではなかったし、呼びたくなったら呼べばいい。
 呼べるようになるまでいつまでも待っていよう――そう、思ったんだ。
 だが、確かに俺だけが苗字のままという事に、僅かながら疎外感や焦りを感じてもいた。多分、恭介はそれに気付いていたのだろう。
 猛犬にどこまで近づけるか、などというミッションを持ち出して、俺と理樹をペアにした。
 当時の俺は、それに感づいてはいたが、素直に恭介の企みにのる事にした。理樹と仲良くなれるチャンスだと、そう思ったからだ。
 俺だってお前と話したい。仲良くなりたい。一緒に遊びたい。それから――守ってやりたい。
 おどおどとうろたえる理樹に、だから俺は言った。
”あんしんしろ。おまえは、おれがまもってやる”
 あの時の理樹の顔は、今でも鮮明に思い出せる。零れおちそうな大きな黒瞳を瞬かせて、それから理樹は、こくりと頷いた。
 少しだけ微笑んで、頼もしい相手を見るように、俺を――。
 いつも恭介だけに向けられていた視線が、俺にも向けられたあの一瞬、俺は心に決めた。
 ――理樹は、一生俺が守る。
 誰にも、何にも傷つけさせはしない。
 俺は、理樹を背中に庇いながら犬小屋の見える所まで行き、それから二人でミッションをこなした。
 鎖の長さを見誤り、犬が飛びかかってくるという誤算があったが、俺はただ自分の思った通りに行動した。
 理樹を守ると決めたのだから、ならば――守る。それだけだ。
 そうして理樹は、俺の名前を呼んだ。
「――けんごっ…って、呼んだの、あれが初めてだったなぁ」
「ああ。…嬉しかったぞ」
「嬉しいって…そんな場合じゃなかっただろ?」
 噛まれそうだったんだから、と理樹はあきれ顔になる。
 幸い大事にならずに済んだのだが、その時の理樹の泣きようは凄かった。
 わんわんと泣きじゃくって、俺は途方に暮れるしかなく。
 それを恭介が懸命に慰めて――。
「あの時はごめんね」
「昔の話だろう。それに、お前が悪いわけじゃない」
「謙吾、昔のまんまだなぁ。確かあの時もそう言ってたよ」
「…そうだったか?」
 あまりその辺は覚えていないが。
 俺が覚えてるのは――泣いた理樹を、恭介が抱きしめてやっていた事。
 ごめんなさい、としゃくり上げながら謝る理樹を、どうしようもなく大切だと、そう思った事。
 俺が守ってやりたかった。俺が抱きしめて、俺が慰めてやりたかった。
 安心しろ。お前は俺が守ってやる。
 けれど、そう告げた言葉に返ってきたのは、柔らかく残酷な拒絶。
”ないてごめんなさい。――もう、だいじょうぶだから…”
 恭介の腕の中で、理樹はそう言った。
 だが、それでも良かったんだ。
 俺は理樹が傷つかなければいい。それが恭介の傍だというなら、俺は、お前が恭介の傍らに在れるよう、全力でお前たちを守ろう。
 そう決意した。
 だが、理樹はそんな事は知らないだろう。当たり前だ。
 今だって理樹は――何も知らない。
 他愛無い会話を続けながら、俺は、何も知らない理樹と二人で、あの日の河原に向かう。
「謙吾。どこまで行くの?」
 丁度、そこに辿り着いた所だった。振り返ってここだと告げてやる。
 あの日の――写真を撮った場所。
 理樹は、だが不思議そうにしているばかりだった。
 何も知らない目だ。理樹は、何も知らない。まだ子供のままで、何も覚えてはおらず、一つとして知らない。
 これでは、きっと今も変わらず――弱いままだろう。
 俺は、何も言わずに土手を下りていく。来ないかと誘うと、理樹はすぐに後を追って来る。
 どうすれば、いい。
 この細く弱々しい肩を支えてやるためには、幼く無垢な笑顔が曇らないためには、どうすれば…?
 それとも、やはりそれは無理なのか。
 草の上に腰を降ろし、俺は寝転がって考える。
 理樹は、少しばかり驚いたように俺を見た。そういえば俺は、他人の前でこうやって自分の考えに没頭する事はあまりなかったな。
「…気持ちいいぞ?」
「う、うん…じゃあ、僕も」
 片目を上げてさりげなく誘ってみると、理樹は俺の隣に腰をおろした。そして同じく寝転がる。
 滲むような青空を見上げ、理樹は気持ち良さそうに目を細める。
 俺に全幅の信頼を置く、無防備な顔。
 気持ちいいねと微笑むその表情に、――無性に泣きだしたいような衝動に駆られた。
 本当にもう…守れないのか?
 俺は――これから傷ついていくお前を、見ている事しかできないのか。
 ただ黙ってお前が強くなってくれるのを、待つしか…。



 俺の隣から聞こえる安らかな寝息。
 理樹は、眠っていた。
 最初は幸せそうな顔で。
 だがやがて、それは辛そうなものに変わる。
 その表情を、俺はよく知っていた。
 過去に何度も何度も見た、ボロボロに傷を負った時の顔だった。
 夢を、見ているのか。記憶はなく、ただ失う悲しみ――お前にとって最も辛い感情に彩られただけの夢。
 一度負った傷は、そう簡単に癒えやしない。
 訳も分からず、そうして痛みの感情だけが増えていく。
「っ――」
 隣で理樹が、小さく息を詰めた。
 涙も見せず、声も出さず、だが、理樹は泣いていると思った。

 いいんだ、もういい、理樹。もう嫌だと泣き喚いていい。
 お前は、そうしてもいいだけの酷い経験を積み重ねてきている。
 強くするためだと――だがその為に、お前を傷付けていい、などとそんな事はないはずなんだっ…!

 理樹の痛みがどんどん深まっていく。だか、誰もが見て見ぬ振りをする。
 「仕方ない」「そうするしかない」「強くするために」「必要なことだから」「自分で乗り越えなければ」…。
 そうかもしれん。だが、それは間違っている。正しい行いではない。
 理樹を傷つける事が、正しいはずはないんだ。

 例えそれが、どうしようもない程必要な事なのだとしても。

 融通の利かないガキだというか。もっと大人の見方をしろと。
 大事の前の小事だ、もっと先を見据えて、目の前の傷付く理樹からは目を潰れ――皆、そうしている、と。
 だが、俺には出来ない。
 今目の前で大事な者が、傷を負おうとしている。ならば俺は――守る。
 馬鹿と呼んでもらって結構だ。
 悪いな恭介。俺はどうやら――自分で思ったよりずっと、馬鹿でガキらしい。
 今、決めた。
 俺は、この命を賭けて理樹を守る。この世界を守る。――皆を、守る。
 理樹と鈴だけなどと小さい事を言うものか。
 見ていろ恭介。俺は――お前も含めて全員を守ってみせる。
 この世界を守れば、それは可能だろう?
 決意が固まれば、俺の前には道が見えていた。
 俺は、ただ守る。それだけだ。
 それが間違っているというなら、――恭介、お前が止めて見せろ。
 ずっと、理樹を守るのは恭介の役目だった。泣いている理樹を抱きしめて、そうして慰めるのは俺ではなかった。
 だがこれからは、俺は俺のやり方で、理樹達を守る。

 強く願う、強く想う。

 美しく、だが惨たらしいこの世界を、俺が守る。命を賭してでも。
 そうすれば、ここは永遠の楽園になる。誰もが幸せで、誰もが楽しく、そんな楽園に。
 俺がしてみせる。
 時間がない?そんなもの、俺がどうとでも引き伸ばしてやろう。
 理樹、もう誰にもお前を傷つけさせはしない。例えそれが――恭介であっても。

 安心しろ。お前は、俺が守ってやる…。

 そっと抱きしめた身体は、思ったよりずっと細く華奢で、そして――まるでこの世界のように儚かった。


          *


 それから少しして、俺は理樹を起こした。これ以上、理樹の辛そうな顔を見るのは、俺の方が耐えられそうもなかった。
 目を覚ました理樹は、少しばかりぼんやりと、だがまだ夢の痛みから抜けきれないようだった。
「大丈夫か?」
「うん…大丈夫」
「だが…」
「ごめん、ホント大丈夫。ちょっと変な夢見ただけだから」
 そんな顔をして、何を言っている…。
 昔のように泣きじゃくらない分だけ、心に溜めているのだろう。
 俺の視線に気付いた理樹は、心配させまいと小さく笑った。そんな所だけは昔と変わらない。
 そして、
「もう大丈夫だよ」
「っ…」
 理樹のその言葉に、一瞬息が詰まった。それは柔らかな――けれど確実な拒絶。
 ここにいないはずの恭介が理樹の傍らにいて、その身体を抱きしめているように思えた。
 ”ないてごめんなさい。――もう、だいじょうぶだから…”
 幼い理樹の姿が、今に重なる。
「…謙吾…?」
「――そうか、もう大丈夫、か…」
「?僕、なんか変な事言った?」
「いや…」
 分かって、いるんだ。
 お前を守るのは、――いつだって俺ではなかったから。
 だが、頼む理樹。
 どうか俺にチャンスをくれ。
 俺に、お前を守らせてくれ。
「理樹。――強く、なりたいか」
 俺の言葉に、理樹は面食らったようだった。俺は重ねて同じ質問を繰り返す。
 強くなりたいか、と。
 理樹。頼むから一言…たった一言、弱いままだよと、強くなんかなれないと言ってくれ。
 そうしたら、俺が絶対に守ってみせる。
 俺のすべてを賭けて守ってみせる。
 だから――。


「強くなりたいよ」


 その言葉に、――打ちのめされた。
 なぜだ…どうしてだ…!
 その言葉を言ったら、お前が強くなったら、この世界はっ…!
 傷ついているのだろう?弱いお前の心はもうボロボロのはずだ。
 なのにどうしてそう言えるんだ、理樹。傷付いて、傷付いて…心に張り裂ける程の痛みを抱えているはずなのに、それでも尚…お前は…。
 俺は思わず理樹を抱き寄せる。
「けんごっ…?」
 困惑した声に構わず強く抱きしめた。理樹は、だがそれを撥ね退けたりはしなかった。
 ややして、背中に柔らかな手が添えられる。
「…謙吾、大丈夫?」
「――俺なら、大丈夫だ」
「ん。そっか…」
 優しく耳朶を叩く声音。
 こんなに小さな身体なのに、どうしてか時折、広く深さを感じる事がある。
 抱きしめているのは俺なのに、まるで俺の方が抱きしめられているような。
 宥めるように背中を撫でられて、これでは、慰められているのは俺だなと苦笑したくなった。
 俺よりもずっと細くて小さな身体。
 そういえば、こんな風に抱きしめたのは初めてだと気付いて、途端に僅かに顔に血が昇る。
 腕を緩めると、理樹はただ不思議そうな顔をしていた。
 それから、謝る俺に微笑んで。
 腕に残る理樹の感触を思い返せば、その笑みにも妙に気持ちが上擦る。俺は誤魔化す様に、そろそろ戻ろうかと告げて、理樹に背を向けた。
 今更のように、――俺は、理樹が好きだったのだと、気が付いた。
 理樹は、俺の後を追ってきて、ここへ来た理由を聞いてくる。
 逡巡してから、俺は素直に内心を吐露した。
「お前と、もっと一緒にいれば良かったと思ったんだ」
「僕と…?」
「二人で出掛けた事なんて殆どなかっただろう。だから、そういうのも経験しておきたいと思った」
「何だ…僕でよければ別にいつでも付き合うから、言ってよ」
「――ああ。そうだな。…どうしてもっと早く、俺は…」
「別に今からだって遅くないだろ?時間なんて沢山あるんだから」
 何も知らない理樹は、笑顔で告げる。
「そう…だな」
 そうだな…お前が――強くなると、言わなければ。
「次はどこに行こっか。ゲームセンターとかならでも皆で行った方が盛り上がるかなぁ」
 次か。そうだな、きっとまだ、”次”はあるだろう。
 そのまた”次”もあるだろう。
 けれど――それがずっと続く訳ではないのだと、俺は思い知らされる。
 強くなりたいと、理樹はそう言った。
 なら俺は、せめてそれまで、理樹とこの世界を守ろう。
 歩く理樹と俺の間に、一定の距離。小さい頃から変わらない。きっとこの先も、そうなのだろう。
 他愛ない会話の中で、バトルで強くなるにはどうすれば、と理樹が口にする。
 強くなる――理樹はもう、遊びの中ですらそんな言葉を連想する様になっていたのか。
 だから、俺は言ってやった。
「――強くなりたいなら……そうだな、まずはバトルで俺を倒してみるというのはどうだ?」
「え、ええ!?そ、そんなの無理だよ…」
「お前とバトルか…ふむ、頑張って俺に挑戦できる順位まで上がってこい、理樹」
 俺がそう言うと、理樹は情けない表情になる。
「ええー…」
「どうした、強くなりたいのだろう?」
「そうだけど…わかったよ。じゃあ、ちゃんと一位で待っててね?」
「俺を誰だと思ってる。連戦連勝無敗の男だぞ?」
 俺は負けない。お前を守るためなら、例え誰を相手にしても。
「じゃあ僕も負けちゃうじゃないか!」
「まあ、その辺は頑張れ」
 だがそれでも、俺は分かっているんだ。
 お前が望むのは、いつも――俺の傍ではなく。
 その視線が追うのは、俺の背中ではなく。

「じゃあ、頑張っていつか追いつくからね」

 理樹が微笑む。
 残酷で惨たらしく、だかそれでも世界は、時折こんな風に美しい。
 これを一刻守る事は出来たとしても。


「ああ。俺はいつまでも待っているぞ。お前が追い付くまでちゃんと待っている。だから、――理樹」


 お前はいつか追いつくだろう。
 だからやはり。


「そんなに、急がなくていい――」


 いつかこの世界は終わるのだ……。


 
 
 
 
 

あとがき
 恭介は英雄で、真人は大人で、謙吾はガキだと思う。だけど、それでも一番優しいのは謙吾だと思うんだ。
 そんで、やっぱりちゃんと世界が終るのは知ってて、でも、理樹が強くなるまで、自分一人でも世界を守ろうとしたと思うんだ。
 自分がずっと遊びたくて、ずっと虚構世界にいたかったのもホントだけど、でも、弱い者がいれば守る――それも謙吾のホントの気持ちだと思うのですよ…。

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