暖かな檻

 冷たい手だった。
 冷たい頬だった。
 冷たい唇だった。


 どうして俺の手だけが温かいのか、それが不思議で仕方なかった。


          *


 すっきり晴れた青空と、暖かく降り注ぐ陽射し。
 厭味なもんだな、と俺は一人ごちる。
 例えどれほど人の心に暗雲が立ち込めたとしても、現実の世界ってのは小気味よく晴天だ。
 青々と茂る芝生を踏み崩し、俺は適当な所に腰を下ろす。
 前髪を擽っていく涼しい風に目を細め、ぼんやりとグラウンドを眺めた。
 部活の連中が駆けずり回っていた。
 そう言えば、野球部は復活したんだったか。
 リトルバスターズも助っ人で入る事はあるが、今日の練習には誰も出ていないらしい。
 …しっかし下手くそな投球だな。そんな投げ方じゃ駄目だろ。
 バッターもバッターだ。もっとしっかり振り切らないと。
 教える相手もいないのに無意識に手が動いて――。
『えっと…こう、でいいの?』
 一瞬だけ、あいつが俺の顔を覗き込んだような気がした。

「――馬鹿か」

 自分で自分の妄想に吐き気がする。
 握り締めた拳で地面を叩き、きつく目を瞑る。
 部活連中の掛け声と――それから、草を踏みしめる軽い足音が聞こえた。
 俺の背後から、人の気配が近づいてくる。
 だが振り向く事はしない。
「恭介氏…」
 掛けられる声は見知った女子のもので、俺は軽く落胆する。
 ――落胆?
 そうか…。この期に及んで、まだ俺は期待や希望なんてものを持ってたのか。
 人間ってのは、ほとほと欲深い生き物だ。
 もう一度彼女が俺の名を呼ぶが、それへの返答すら億劫で、見えない事を承知でただ自嘲だけを唇に載せる。
 沈黙の中、風が草を撫でていく。
 返事をしない俺に、やがて痺れを切らしたのは彼女の方だった。
「恭介氏、聞こえているのなら返事位したらどうだ」
 責めるような、棘のある声音。だがいつもの気丈で余裕のある口調ではない。青褪めた顔と震える唇が容易く脳裏に浮かぶ。
 …振り向かなくて正解だったな。
 その顔を見れば、俺はきっと――認めがたい現実を受け入れざるを得なくなる。
 頼むから…今はまだ、何も言うな。
 祈るように、そう願う。
 だが、俺の心を打ち砕くように彼女は言葉を掛けてくる。
「恭介氏。――理樹君が、昨日」
「知ってる」
 告げられる事実を遮ってそう言えば、再び沈黙が辺りを支配した。
 知ってる。だから頼むから、誰も、何も言うな。
 俺に――冷たい現実を、突き付けるな。
 浮かぶのは拒絶ばかりで、あまりの不甲斐無さに涙も出てこない。
 所在なげにしているだろう彼女に、俺は努めて冷静に言葉を紡ぐ。
「鈴は、どうしてる」
「…泣きっぱなしだ。小毬君が昨日からずっと一緒にいる」
「そうか」
 小毬が付いてるなら大丈夫だろう。
 良かった、と乾いた心で思う。少なくとも泣いているのなら――俺よりはマシって事だ。
「鈴の奴、手が掛かると思うが…慰めてやってくれ」
「…君は」
「ん?」
「君は…どうなんだ」
「何がだ」
「――君は、…泣かないのか」
 泣きそうな声がそう言った。俺は一言だけ返す。
「泣かねぇよ」
「っ…どうしてだっ…君は、理樹君と君はっ…!」
「泣いてどうなるって言うんだ」
 激昂する彼女に、俺は冷たく吐き捨てる。
「俺が泣いてそれでどうなる」
 息を飲む気配と、一瞬だけ漏れる小さな嗚咽。やがて足早に靴音が去っていく。
 安堵と罪悪感が同時に湧く。
 ――すまないな。
 俺は、本当は情けない人間なんだ。
 格好良くも凄くも強くもない。
 ただの…弱い子供だ。
 泣かない理由だって大したもんじゃない。
 泣いたら――認める事になるからだ。

 だから俺はまだ、泣く訳にはいかないんだ。


          *


 バスの転落事故。俺を含め全ての学生が助かった――はずだった。
 理樹と鈴。一番守りたかった二人に助けられ、生還した俺を待っていたのは、一人だけ欠けたリトルバスターズだった。
 『おかえり』と、きっと最初にそう言ってくれるはずのあいつだけが、そこにはいなかった。
 生きては、いた。
 生きてはいたが、それは俺の望んだ未来とは違っていた。
 あいつだけが、目を覚まさなかった。
 肉体は現実にあっても、理樹の心は還って来なかった。虚構世界に閉じ込められたままになっているのかもしれない。
 そして、心が還って来ないまま日が過ぎて。
 昨日、ぐしゃぐしゃにしゃくりあげる鈴の声が、留守電に入っていた。
 『きょーすけ』と『理樹』と――『死』。泣き喚くメッセージの中、聞き取れた単語は三つのみだったが、それで十分だった。
 理樹の肉体は、精神の帰還を待ち切れなかったのだ。
 頭の中は冷えていて、自分でも意外な程冷静だった。けれど受け入れ難い現実は妙に上滑りしているように感じられた。
 就活を切り上げ帰宅途中のその足で直枝家に寄った。
 理樹は帰って来ている、という言葉と共に案内された奥の部屋には、長い木箱。
 呼吸も鼓動も止まった理樹は、ただ静かにそこにいた。


 よく、眠っているように見えた。


 触れた理樹の身体は、酷く冷たくて――。


 冷たい手だった。
 冷たい頬だった。
 冷たい唇だった。


 どうして俺の手だけが温かいのか、それが不思議で仕方なかった。


 俺は結局その後、家には帰らなかった。
 鈴には小毬がついてくれているのが分かっていたし、今はまだ――誰より俺自身が、目の前の現実に向き合っていないのが分かっていたからだ。
 少なくとも鈴は、目に映った現実を受け入れたからこそ、泣いたのだろう。
 だが俺は、――泣く事すら出来なかった。


         *


 まるで生贄だ。
 きっと理樹は俺の身代りになって、あの世界に魂を捧げたんだ。
 馬鹿だ。俺なんかに手を差し伸べて、それでお前が還れなくなったら元も子もないだろう。
 地獄に堕ちる覚悟なんて当の昔に出来ていたはずなのに。
 どんな罰でも甘んじて受けようと。
 けれど…。
 昨夜の冷たい手の感触が、今までの全ての記憶を塗り替えようと迫ってくる。
 暖かい陽射しを見上げ、部活の掛け声を遠くに聞きながら、圧倒的な現実という地獄の中で、俺はただ…小さく笑う。
「やっぱ地獄ってのは…中々堪えるな…」
 呟いた声は、どこか他人の物のようだった。
 ふと気が付くと芝生を握りしめていた。開いた掌から引き千切った短い草と土が零れ落ちる。
 指の間から、陽に温められた命が零れ落ちていく。
 思わず掌を握りしめていた。


 唐突に、まだ終われない、と思った。


 だっておかしいだろう。俺の手だけが温かいなんて。
 本当は、理樹の手だって温かいはずだ。
 こんな土塊も芝生も温かいのに。
 理樹だけが冷たいなんて――そんな現実は、間違ってる。
 間違って、いる――。
「…そうか…」
 なんだ…そうだったのか。
 突然閃いた認識に、俺は笑い声を上げたくなった。
 実際笑っていたかもしれない。
 なんだ、そうか!

 現実が間違ってるのか!

 だったら話は簡単だ。
 間違ってるのは、俺じゃない。
 この世界が、間違ってるんだ。
 間違ってるなら、正せばいい。
 命を賭けて、俺が理樹を助けると誓う。
 だから――。

 強く想え。強く願え。
 理樹を、取り戻せ。



 お前は狂っていると、頭の片隅で冷静な自分がそう指摘する。
 そうだな。多分狂っているんだろう。
 だがそれがどうした?
 狂っていても壊れていても間違っていても、何だっていい。
 もう一度理樹に会えるなら。



 間違った世界なんて、俺が叩き潰してやる。


 
 
 
 
 

あとがき
 恭介は理樹と鈴の為なら何があっても諦めない男です。
 しかし何で久々リハビリがBADなんだ俺…。多分、すげー前に書いた『罪深く』(リクで書いたBAD恭理)と似た設定ー。
 というかほぼ同じ設定じゃねぇか!?
 ifで理樹独り死亡endとか結構好きです。
 恭介が死んじゃって理樹がそれを追うってのも萌えるんですが、理樹が死んじゃって恭介が諦め切れないってのは燃えると思うんだっ(爆)

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