僕は逃げた。
強く生きることから。
生きる事が怖かった。また失うのが怖かった。
その瞬間から、世界はもう動かない。
閉じた世界――閉鎖世界。
どこにも繋がらない。どこにも還らない。時が戻る事も無い。進む事も無い。
絶対零度の凍りついた世界。
皆眠っている。眠り続けている。永遠に眠り続ける。覚める事は無い。夢すら見ずに唯、在り続ける。
眠っていないのは、僕と――恭介だけだ。
恭介が、そう望んだから。
ここは恭介の世界だ。恭介は、今もたった一人で、この世界を守ってる。支えてる。
恭介が眠ったら、この世界はきっと終わる。今眠っている皆も消える。
――この世界は、止まっている。止まることで、存在を留めている。
恭介が眠れば、時は動き出して――留めていた存在が、流れて消えていくんだ。
誰も動かない。笑わない。悲しまない。苦しまない。
全てが止まっているから、想いの交差は起こらない。
動く世界は綻びやすいのだと、恭介は言っていた。世界は独りで創った方が楽なのだと。
色々な想いが交差し、満ちると、世界は思わぬ方向に行くこともあって、その負荷は計り知れない。
止まった世界にはそれが無い。
僕はいいの、眠っていないよと聞いたら、恭介はぞっとするような笑みを浮かべて言った。
お前はいいんだ、俺のものだからな、と。
意味が分からず困惑している僕を、恭介が抱き締めてくれた。
温かくて、広くて、大きくて、――安堵する。
心配するなと恭介が言った。お前は何も考えなくていい、と。
恭介がいてくれる。なら何も怖くない。そのまま僕は、眠り病を受け入れる。
恭介が傍にいてくれる限り、僕だけは目が覚めると分かっていたから。
*
何の変哲も無い、平穏な日常。
鈴も謙吾も真人も、他の新しいリトバスメンバーも、クラスメイトも全員いる。
当たり前の日常。いつまでもこんな日々が続く。ずっと続く。
今日も窓から恭介が入ってきて、缶蹴りをしようなんて言い出した。
野球試合の前日にもやった気がする。
――あれは、いつの事だったろう…?
もう遥か昔のような。
そういえば、今日は――何日だったっけ?
「理樹」
恭介の声が、不意に僕の意識を引き戻す。
「何?恭介」
「具合でも悪いのか?」
「そんな事ないけど」
「嘘吐け。…また、例の奴でも来るんじゃないのか」
そんな事ない――そう言おうとして、身体が動かない事に気付く。
ああ本当だ。恭介の言った通りだ。
恭介は、僕よりも僕のことを良く知ってる。
――そして、いつもの暗闇が訪れた。
*
ずっと、眠っていない気がする。
いつも悪夢を見ている。夢のない眠りは訪れない。
いつからだったっけ?
ずっと何かを忘れているような――忘れ続けているような。
目を覚ますと、自室のベットの上だった。
「きょうすけ…?」
「ここにいる」
腕を伸ばすまでもなく、僕の手は握られていた。しなやかな恭介の手。
「缶蹴りは?」
「中止だ」
「…ごめん」
「別にお前が悪いわけじゃない」
「うん」
静かだった。
ぼんやりと辺りを見回す。
もう陽が落ちる。暗さの中、恭介の顔には濃い陰影がついてる。
「皆は?」
「―――」
恭介が、無言で指を絡めてくる。長い指。
「ねぇ恭介。皆は…?」
「――眠ってる」
「…そう。起きてるのは…僕と、恭介だけ?」
「そうだ」
「そっか」
何故だろう。胸に穴が空く。
真人の馬鹿に笑って、謙吾の弾けっぷりに少し引いたり、鈴の的確な突っ込みに感心したり――。
あれは、全部夢なんじゃないだろうか。恭介の創ってくれた、僕の夢。
「どうした、理樹」
優しい声音が耳朶を叩く。
「心配するな。全部……俺に任せておけばいい」
繋いだ手の平が熱い。ぎしりとベットが軋む。
恭介の片膝がベットの脇に乗っている。
「俺に全てを委ねればいい」
皆忘れちまえよ、と囁かれる声。
吐息と吐息の触れ合う距離。
恭介の指が、僕の頬を辿っていく。これから起こる事が、分からないのに分かる。
初めてなのに初めてじゃない。――既視感。
「理樹…」
求める、声。
僕は目を瞑って――恭介を受け入れた。
触れ合う肌。絡み合う手足。身体を貫く、痛みと熱さと――快感。
肉と肉が擦れ合って、溶け合う。
ああ、まただ。――既視感。
もう何度も何度も、こうして恭介と交わっている気がする。恭介に、身体を貫かれている気がする。
何かを考えなきゃいけないのに、思考は瞬く間に白く塗り潰される。
耳を塞ぎたくなるような喘ぎ声が聞こえる。
僕の声だ。
恭介は、恍惚とした笑みを浮かべて僕を見下ろす。
支配者の表情。
恭介は僕を支配する。僕だけを。神のように君臨し、咎人に鉄槌を下す。
ああ、そうだった。
僕はまた忘れていたのか。
ここは恭介が神の世界。神と咎人だけの閉じた世界。
赦罪の日は遠く――きっと永遠に来ない。
僕は断罪され続ける。
「理樹――愛してる」
けれど――告げる声は、何処までも甘く優しい。
恭介が求めているのは本当に、唯僕だけなんだ。僕だけを求める。
二人だけの世界。二人きりの世界。恭介が望んだ世界。
僕は――恭介の為だけに、この世界で目覚めているんだ……。
皆はまだ目覚めない。ずっとずっと永遠に。
僕はまだ眠れない。ずっとずっと永遠に。
それは僕だけの罪。
眠りたいよ、恭介。もう、夢を見たくない。夢を見ずに眠りたい。
分かってるんだ。また、僕は逃げようとしてる。
だけど――恭介はもう、僕を逃がしてはくれない。
だから、いつか眠りに付く時は、恭介も一緒なんだ。
二人で寄り添って、溶け合って、お互いが分からなくなるほど一緒になって、もう二度と離れない。
魂まで、一つになろう。――それが恭介の望みなら。
ごめんね恭介。
こうやって抱き締められて、いつの日か来る眠りを切望しながら、誰も幸せになれないこの世界で。
――唯、僕だけがほんの少し幸せなんだ。
*
また夢を見ていた。
いつも悪夢を見ている。夢のない眠りは訪れない。
ずっと何かを忘れているような――忘れ続けているような。
――既視感。
夢を見ないで眠りたいと、そう思ったのは、いつだった…?
繰り返す。全てを忘れて、何度でも繰り返す。
――そして、また同じ朝が来る。
あとがき
暗っ!?リトバスOP曲を聞きながら作成。(限定版のCDについてる未使用バージョン)
何となくリトバスOP曲の歌詞と逆っぽい感じに。
その足は歩き出さず、やがてくる過酷も乗り越えられない、逃げ続ける理樹にはこんなBADが待っている…はず。