最愛なる猫へ・2

 まずい、とコノエは思った。
 呪術師の庵を出た時刻は、そう遅くは無かったはずだ。それがどうしてこんなことになった?
 陽の日はとっくに落ちて、空には陰の月。
 森では迷わなかった。
 迷ったのは、猫で溢れ返る暗冬の街中だ。宿までの道は流石に覚えていると、己を過信したのがまずかった。宿のバルドとライの為に、何かを買っていこうとちょっとだけ屋台を覗いたはずが、いつのまにやら猫波に流され――。
「ど、どこだ…ここ…」
 現在に至る。
 猫には珍しい、方向音痴。
 いつもなら白銀の闘牙が、「馬鹿猫が」と言いながら見つけてくれるのだが。
 バルドには呪術師の庵に行くと言ってしまったし、流石のライとて、この猫込みを探すのは無理だろう。
 自力で戻ろうにも、見た事のある場所に出ない事には、どうしようもない。
 流されるままあらぬ方向へと押しやられながら、コノエは必死に辺りを見回す。その目に、ふと暗い路地が止まった。
 ライの良く行く酒場に繋がってはいないだろうか。
 確信など無かったが、兎に角わらにも縋る思いで、コノエは猫の波を掻き分ける。
 最期は列から弾き出されるように、薄暗い路地へ。
 大通りの高揚した雰囲気が嘘のように、冷えた空気がコノエを包んだ。目付きの悪い、ならず者達がそこかしこに座り込んでる。
 コノエは、狭い路地を足早に駆け抜ける。ライにも鍛えられ、腕にはそれなりに自信もある。並みの闘牙に負けない位だと自負はしているが、ここに蹲っている猫たちは、所謂ガラは悪いが腕は立つ、という物騒な部類だ。
 対一匹なら何とかなったとしても、二匹以上相手にしたら逃げられるどうかも危うい。狭い路地で因縁でもつけられたら、コノエには圧倒的に不利だ。
 早く路地を抜けようと、焦った。
 それが悪かった。
 視界の端に映った猫が、笑ったように見えた。それに気付いた時は遅かった。いきなり足を引っ掛けられた。
 コノエは派手に転ぶ。
 一瞬で背筋に悪寒が走る。
 まずい。
 転んだ音で、猫達の視線がコノエに集まる。
 慌てて起き上がったコノエの足首を、誰かが掴んだ。
「放せっ!」
 爪を立てた左手を一閃。
 怯んだ相手から足をもぎ取り、ついでに相手の尻尾か手かを蹴りつけて走る。
 だが、直ぐに行く手を塞がれる。狭い路地では、逃げる場所も無い。
 コノエはあっという間に、屈強な大型の猫達に囲まれた。
 後ろから羽交い絞めにされ、手も足も押さえつけられる。
「逃げんなよ、子猫ちゃん」
「何だ、凄い別嬪じゃないか。あんたみたいな可愛い子猫が、こんな路地で何してる?」
「襲って下さいって言ってるんじゃないのか?」
「そりゃいい。可愛い顔して盛り猫か」
 下卑た笑い声。
 コノエは唇を噛み締める。
 そうだ。今は発情期の時期だ。猫によって差があるらしいが、早い猫なら、暗冬の間に来る者もいるだろう。
 すっかり失念していた。
「やめろっ放せ!」
「暴れるなって。発情してるんだろう?」
「俺たちが可愛がってやるからさ」
 身勝手な言葉と共に、男達の手がコノエの身体を這う。
 その怖気に、尻尾の根が膨らむ。
「嫌だっ…やめろ!」
「何だよ、慰めてやろうってのに。番う相手もいないんだろう?」
 その言葉に、ライの顔が浮かんだ。
 身動ぎ一つ出来ない身体。
 それでも、ライ以外の猫には、絶対に触れられたくない。
「嫌だっ…ライっ!」
 叫んだ瞬間、目の前の猫が、ぴたりと動きを止めた。
「ライ、だって?」
「?」
 周りの猫達はその名に反応していないが、目の前の斑猫だけは、様子が違う。
「へぇ、ライ、ねぇ。アンタ、ライの番か?」
「ライを知ってるのか…?」
「なるほど。じゃ、アンタが噂の賛牙か」
 賛牙、の言葉に、周りの猫達にも動揺が走る。
 なぜかは分からないが、斑猫の目配せと共に、猫達はさっとコノエから離れた。背後の一匹だけは離れず、羽交い絞めにされているコノエは相変わらず身動きが取れない。が、先程の状況に比べれば、ずっとマシだ。
「どういう事だ」
「さぁて。ただ、アンタに用があるって連中がいるのさ」
「俺に…?」
 斑猫は笑うだけで、答える気は無いようだった。どちらにしろ、この状況ではコノエに選択権はない。
 大人しく連れて行かれるしかないようだ。
 一難去ってまた一難。
 ――ライに、また怒られる…。
 目を離すと直ぐこれか、このトラブル猫――そんなライの罵倒が浮かんで、コノエは溜息を吐いた。



 バルドの宿で、ライは険しい顔で番のベットを睨みつけていた。
 コノエが帰って来ない。
 バルドから聞いた伝言では、呪術師のところに行って、夕方には戻ってくるという話だった。
 だが、もうとっくに夜だ。
 コノエはもう子猫じゃない。心配することはない。心配など、何も――。
「……。馬鹿猫が」
 溜息を吐いて、ライは立ち上がる。
 あの猫だけは、どれほど心配しても、心配しすぎるという事はないのだ。なんといってもまずは方向音痴。その上、直ぐ騙される。火楼で村八分にされていた反動ゆえか、優しい言葉を掛けられると、相手を良い猫だと思い込む。しかも本人は、自分は警戒心が強いと思い込んでいるのだから始末に終えない。
 更に、――あの外見。コノエは己の外見に関して驚くほど無頓着だ。だがコノエの外見は、誰が見ても上の上だ。ライが初めてコノエと会った時、助けてやった相手が思いの他綺麗な猫だったから、はっきり顔を覚えていたのだ。
 小型種特有の、線の細いしなやかな身体と、敏捷な動き。アサトというあの黒猫が、一目惚れをして、奴隷の如く懐いたのも頷ける。散々遊び尽くして目の肥えたあのバルドでさえ、隙を見てはコノエに色目を使う。
 コノエは、本当に綺麗な猫なのだ。
 どうして自覚がないのか理解に苦しむが、それが、火楼で過してきたコノエの境遇を物語ってもいる。
 全く以って、世話の焼ける猫だ。
 ライは、つい三日前足を運んだばかりの呪術師の庵へ、再び向かう事を決めた。




 三日前。
 ライは呪術師の庵を訪ねた。
 無論、用があったからだ。
 呪術師は相変わらずこちらも見ずに、開口一番言った。
「コノエは来ぬのか」
「……コノエでなくて悪かったな」
「ふむ。悪くは無いが、残念ではあるな。あれは貴重な猫ゆえ」
 その言い様に、ライは目を眇める。
「貴重な賛牙でその上、リークスの魂まで継承しているからな」
「そうではない。それらも確かに、あの猫を貴重な猫とした因果の一つではあろうがな。だが――」
 呪術師は、振り返ってライを見た。
「あの猫の貴重さは、そこではない。お主が一番知っておるのではないかな?」
 未来を白紙へ戻す――未来の見えない猫。
 己に関わる者達をも巻き込んで、宿命を打ち砕き、未来を創造する。コノエの判断一つで、何万もの猫が死に、何万もの猫が生きる。
 世界を揺るがす猫なのだ。
「あの猫は、まるで神の奇跡じゃな」
「――」
「して、何用じゃ?」
「貴様が前に言っていた、来威の猫について、聞きに来た」
 来威。修行によって無理矢理賛牙の能力を目覚めさせる一族。代々賛牙長を務め、藍閃では領主に次いで、最も権力のある一族だ。
 リークスの野望を打ち砕いた後、ライは一度、コノエと共に呪術師の元へ行った。その時、帰り際に、呪術師はライにだけ告げた。「藍閃では来威に気を付けよ」と。
 それは、賛牙長を始めとする、藍閃の賛牙部隊そのものを警戒しろという事だ。
 その意図を、ライは直ぐに察した。コノエは生粋の賛牙だ。しかも稀代の賛牙と謳われたシュイの息子であり、その能力はしっかり受け継がれている。そこにリークスの魔術師の素質まで加わって、その潜在的な賛牙能力は、計り知れない。
 賛牙として目覚め、たった数日で、他の熟練した賛牙に対抗するだけの力を発揮した事からも、その能力の高さが窺い知れる。
 この先、コノエの賛牙としての能力は、どんどん開花していくだろう。
 ライ自身もそれなりに名の知れた賞金稼ぎだから、番のコノエは直ぐに噂になる。そうすれば、優秀な賛牙を欲しがっている藍閃の領主が、放っておくはずがない。
 来威の一族も、コノエの情報を掴むだろう。
 シュイと同じく、稀代の賛牙と称えられるであろうコノエの存在を、来威が赦すとは思えない。
 だが、コノエに余計な不安も負担も、与えたくはない。それもあって、藍閃では、コノエを情報の集まる場所には近づけないようにした。
 今現在、コノエの顔は、まだそれほど知られている訳ではない。ライの番が凄い賛牙らしい、という漠然とした噂程度だ。
 それでも、来威は油断がならない。
 呪術師は、のんびりした動作とは裏腹に、ライに鋭い眼光を向けてきた。
「なんぞ動きがあったか」
「こちらで掴める動きが無くなった、というのが正しいな。――来威の内部情報が一切入らなくなった」
 末端の情報統制が行われる時は、大抵本体で大きな動きがある時だ。
 ライは呪術師を見据える。
「来威は、コノエをどうする気だ」
「それは来威に聞くが良かろう?だが、そうじゃな…前と違い、殺す気は無いようじゃ。来威は、もう長い事生粋の賛牙が出ておらぬ。もしかすると、コノエを一族に迎え入れる気かもしれんな」
 それはありうる話だ。
 生粋の賛牙は、雌より貴重な存在なのだ。
 来威が動く可能性が出てきた以上、早く藍閃を離れた方がいいかもしれない。
 考え込むライに、呪術師は呆れたような目を向ける。
「それほど心配なら、藍閃になど来なければ良かろうに」
「――」
 ライはギロリと呪術師を睨みつけた。
 コノエを藍閃に近づけたくなかったのは、誰よりライ自身なのだ。だが――。
 コノエの笑顔が脳裏に浮かぶ。
『今年の暗冬も、行けるといいな』
『バルドの料理懐かしいなぁ』
『アサトからの手紙、届いてないかな』
『そういえばトキノ元気かな』
『――また、アンタと見て回りたいなぁ、祭り』
 嬉しそうに、楽しそうに――けれどどこか淋しい。
 コノエが告げる言葉は、時折切ない響きを含む。
 まるで、その楽しい思い出が、もう二度と現実にはならないとでもいうように。
 いつ――死んでもおかしくないかのように。
 そんな風にコノエが言うから。
『藍閃に行きたいなら、いつでも連れて行ってやる』
 ――だから、もっと楽しそうに笑え。
『バルドの宿?いいだろう。なんなら奴の死に水を取ってやれ。俺は取ってやらんからな』
 ――お前は、もっと楽しく、長く生きるべきだ。
 心の中で、コノエを想う。深く深く――コノエの事だけを想う。
 きっとあの捻くれ者の賛牙は、知らないだろう。
 ライが「お前は俺の賛牙だ」と口にするその意味を。
 これ程深く、コノエを想うその心を。
 ――だが、それでいい。
 気付かせる気などない。
 ライは、祭りが終わったら直ぐに藍閃を発つと決める。呪術師には一応釘を刺す。
「あいつがここへ来ても、来威の事は言うな」
「お主に命令される筋合いはないがの」
「言う気はないんだろう?」
「分かっておるなら、余計な事を言わずにさっさと帰らんか」
 面倒臭そうに言って、呪術師はもはやライの方は見なかった。
 それが、三日前。
 以来ライは、昼夜を問わず来威の動きを探っている。末端の情報統制は未だ解かれていないものの、本体の方に大きな動きがあるようにも見えなかった。
 明日には藍閃を発つ。
 いずれ来威とはけりを付けなければならないだろうが、まだその時ではない。
 ライとコノエの番がもっと名を上げ、もっと沢山の街を巡り、どこの街の領主にも指名されるほどの賞金稼ぎになったら、来威など、叩き潰してやる。
 それには、まだ時間が必要だ。
 コノエを守るには、――最愛の賛牙を守るには、もっと時間と力が必要なのだ。



 
 
 
 
 

あとがき
 ライが出てきたと思ったらコノエと絡まない(笑)そしてやっぱり呪術師への愛っ。いや、これからライコノに…多分…。

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